青森県

陸奥・堀越城~津軽氏が本拠地にした技巧ある平城

陸奥・堀越城




堀越城(ほりこしじょう)は、青森県弘前市堀越字川合・柏田にある平城で、国の史跡になっています。

東西500m、南北400mの縄張りで、変則的な輪郭式平城となっています。
熊野神社の境内になっていますが、微高地の堀越城・本丸部分を囲むように水堀が巡らせており、三の丸から木橋が掛けられています。
このように、各郭は幅10mほどの水堀で隔離されており、主郭は土塁で囲まれています。





建武3年・延元元年(1336年)曽我貞光(曾我太郎貞光)が、南朝方と戦うために築いたと伝わりますが、当時は、小規模な砦だったようです。

1502年に、種里城主・南部光信が大浦城を築いて津軽平野に進出した頃、堀越城も大浦氏の支城になったと推定されます。

陸奥・堀越城

大浦為信津軽為信)が大浦城主となると、1571年に、堀越城から出陣して石川高信石川城を攻略し、主家に逆らい津軽統一へと乗り出しました。

津軽為信が、豊臣秀吉から45000石を安堵されると、1594年に本拠を大浦城からこの堀越城に移しています。

陸奥・堀越城

しかし、関ケ原の戦いで徳川家康に味方している間、石田三成に組した家臣・板垣兵部・尾崎喜蔵・多田玄蕃(三ツ目内玄蕃)が500にて謀反を起こして、堀越城が占拠されています。

堀越城

反乱軍は、西軍が負けたあと金信則が総攻撃して、板垣将兼と尾崎喜蔵は堀越城内にて討死。
多田玄蕃は居城・三ッ目内館にて爆死し、鎮圧されました。

陸奥・堀越城

また、1602年には、津軽為信の長男である津軽信建の子・津軽熊千代を預かっていた津軽為信が、誤って、熊千代(3歳)の顔に火傷を負わせてしまいます。
その時、津軽信建(つがる-のぶたけ)は父・津軽為信と対立したため「天童事件」となりました。

陸奥・堀越城

津軽為信の使者として家臣・天童某の不手際を責めると、津軽信建は天童某を処刑します。
これに怒った天童一族ら4将が、津軽信建の堀越城の本丸まで乱入したため、津軽信建は女装して、命からがら城から逃れたとされます。

陸奥・堀越城

これらの案件により、堀越城では防御が不安だと言う事になり、沼田祐光の意見により新城として高岡城(弘前城)への本拠地移転が1603年に決まり、徳川幕府が許可しました。

そのため、堀越城の建物などは、弘前城に移築されたと言います。
1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となった模様です。

陸奥・堀越城

この陸奥・堀越城、堀と微高の本丸の雰囲気がなんとも言えず、なかなか好きな城です。
しかし、上記にもある仮設駐車場が、本格的な駐車場へと整備中で、フェンスで閉じられていまして、クルマを止められず難儀して、お陰様でゆっくり散策することもできませんでした。
工事中の駐車場も、中は十分に止めるスペースがありましたし、仮設とあるのですから、仮設状態だとしても、いつでも駐車できる状態にして頂けていると助かるのですが、裏切られたと言う印象です。
皆様が訪れる頃には、立派な無料駐車場が完備されているかと存じます。

アクセス・行き方ですが、当方のオリジナル地図にて、その新設駐車場の場所も明確にさせて頂いております。

大浦城~津軽氏発祥のみなもと大浦光信・大浦盛信・大浦為則
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津軽為信(大浦為信)と戌姫~南部家から独立し津軽統一
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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