猪苗代城とは
猪苗代城(いなわしろじょう)は福島県耶麻郡猪苗代町にある平山城で、標高は550m、比高は30mになります。
別名は、亀ヶ城、鶴峰城、鶴峯城とも言います。
最初の築城は、諸説ありますが、一般的には、鎌倉時代に、相模・佐原城を本拠にしていた佐原経連(猪苗代経連)が築城したとされています。
佐原氏は、相模・三浦氏の一族で、三浦義明の子・佐原義連を祖とします。
佐原義連は、平家追討、奥州合戦などで武功があり、源頼朝から陸奥国会津を恩賞として与えられました。
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その子・佐原盛連は、会津に入ると、黒川小館(黒川西館)を拠点とし、小田山城を詰め城としたようです。
長男・猪苗代経連は猪苗代城。
次男の佐原広盛(比田広盛)は、陸奥・北田城。
3男・藤倉盛義は会津・藤倉館。
以上は、正室である常善院殿瑞雲妙慶大禅尼の子でした。
継室は、北条泰時の前妻で、三浦義村の娘・矢部禅尼です。
その矢部禅尼の子が下記です。
4男・蘆名光盛は、惣領とされて会津・黒川城の蘆名氏へと発展しています。
相模・芦名城の地名が、蘆名氏の由来です。
5男・三浦盛時は、一時、加納盛時として、加納館には入っていましたが、三浦宗家を継ぎました。
6男・会津時連(新宮時連)は会津新宮城です。
このように、佐原氏は、会津地方一円の支配を固めたようです。
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会津が、佐原経連の領地になったのは、間違いないのですが、本領は、三浦半島の佐原ですし、佐原経連は鎌倉や京での活動が多いため、実際に、会津の統治を直接行っていたのかは不透明です。
恐らくは、家来や子供などを代官として派遣していたと考えられます。
もちろん、所領の視察程度に、会津の幕内館などに、短期間入ったことはあったでしょうが、素直に、猪苗代経連が猪苗代城を主に築いたと考えてよいでしょう。
なお、猪苗代城よりも、東にある八手山城のほうが、古くから機能していたともありますが、鎌倉時代に山の上には、館は、あまり築きませんので、少し疑問に感じます。
鶴峰城、鶴峯城と言うのは、猪苗代城の城域内、西側の丘のことを言います。
1247年の宝治合戦にて、北条時頼と敵対した、三浦泰村ら三浦一族は約500名が、鎌倉・法華堂にて自刃し、滅びます。
ただし、第5代執権・北条時頼の祖母が、矢部禅尼だったことから、佐原盛連の子らは、執権・北条時頼に味方しており、蘆名光盛は、会津に入り、猪苗代には、宝治2年(1248年)頃、猪苗代経連が移った模様です。
また、加納盛時は後に三浦介(三浦姓)を名乗って三浦盛時となり、相模・三浦氏として再興しています。
更には、会津時連と称した子もいますが、猪苗代経連との名前の子もいるため、恐らくは、猪苗代経連が、猪苗代館でも、構えたものと推測されます。
ただし、猪苗代氏の本家筋は、会津・黒川城の蘆名氏となりますが、完全に臣従していた訳ではなく、猪苗代氏は、反逆したり従属したりを、繰り返しました。
猪苗代盛国
戦国時代に入ると、猪苗代盛国が1536年に誕生しています。
父は、蘆名盛詮の次男で、猪苗代氏の養子になった猪苗代盛清ともされますが、実父は、猪苗代盛頼ともされます。
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この経緯には、猪苗代氏の10代・猪苗代経元が、どうも、嫡子を残さず死去したようで、会津・黒川城の蘆名盛詮の次男である猪苗代盛清が、第11代となって、猪苗代氏を掌握したようです。
ただし、猪苗代盛国の実父とされる猪苗代盛頼は、1500年、蘆名盛高に謀反を起こし、その子・葦名盛滋に討たれています。
となると、猪苗代盛国が生まれたのは、もっと後の1536年とされるため、年代があいません。
ともあれ、最初、猪苗代盛親と称し、第12代・猪苗代盛国は、蘆名盛氏に臣従していました。
しかし、1580年、蘆名盛氏が死去すると、須賀川城の二階堂盛義の子である蘆名盛隆が、蘆名氏18代となります。
ところが、1584年、蘆名盛隆は黒川城内にて、小姓の大庭三左衛門に暗殺され、伊達輝宗の後見を受けた蘆名亀王丸(0歳1ヶ月)が、立てられます。
その蘆名亀王丸も、1586年、3歳で死去し、その後は、佐竹義重の次男が、蘆名義広と称して、蘆名氏当主になりました。
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そのため、1585年に隠居していた猪苗代盛国は、宗家の葦名義広と対立したことや、後妻との子・猪苗代宗国を溺愛したこともあり、嫡子で13代当主の猪苗代盛胤を廃嫡しようと画策します。
そして、1588年、嫡子・猪苗代盛胤が、黒川城に出向いて留守の間に、猪苗代城を奪いました。
多くの猪苗代家の家臣は、猪苗代盛国に従っており、猪苗代盛胤は、猪苗代城は奪還できず、一時、金上盛備が仲介して和睦しています。
更には、伊達政宗が、後妻を通じて猪苗代盛国を調略したため、猪苗代盛国は寝返って、伊達勢を猪苗代城に入れます。
伊達政宗も、蘆名氏攻略の好機と、二本松城から2万の大軍を進めたため、蘆名義広は、迎え撃つべく、猪苗代へ軍勢を進める形となりました。
1589年、摺上原の戦いとなり、蘆名義広の軍勢に加わっていた嫡子・猪苗代盛胤は、父・猪苗代盛国や伊達勢が守る猪苗代城側と大きな合戦になっています。
しかし、士気が上がらない、蘆名氏は、金上盛備、佐瀬種常・佐瀬常雄らが討死するなどして敗走。
兵の多くが逃げた蘆名義広は、会津・黒川城の維持も難しくなり、常陸の本家・佐竹氏を頼って落ち延びました。
猪苗代盛胤も、蘆名義広に従い、常陸国へ逃れています。
猪苗代盛国は、この功績にて、以後、伊達氏の準一門となっており、5000石を安堵されました。
猪苗代氏の家督は、次男・猪苗代宗国が継いでいます。
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ただし、会津・黒川城に入った伊達政宗も、1590年、豊臣秀吉の奥州仕置にて、一部領地替えとなり、猪苗代城も、会津領主になった蒲生氏郷の支配下となりました。
1598年、会津に上杉景勝が入ると、水原親憲が5500石にて猪苗代城主となっています。
その後、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と入れ替わりますが、一国一城令が出ても、猪苗代城は、重要拠点として廃城になることなく、存続しています。
江戸時代の1643年、保科正之が会津藩主になると、猪苗代城には城代が置かれるようになりました。
1868年、戊辰戦争の際、会津藩は、母成峠の戦いで西軍に敗退したため、猪苗代城代・高橋権大夫は、城を焼き払い、会津・若松城に撤退しました。
現在は、本丸・二の郭・帯郭・石垣・土塁・空堀が残り、保存状態が比較的良好です。
明治38年に、城跡が公園として整備されると、幼い野口英世は、よく友人と、猪苗代跡にて、遊んでいたと言います。
春の4月下旬には、桜の名所ととしても、知られます。
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磐梯山は、ちょっと、雲ってました。
本丸へ登るのには、東側の駐車場からがベストです。
猪苗代城の見学所要時間は20分~40分といったところになります。
交通アクセス
JR磐越西線の猪苗代駅から徒歩20分。
公園の駐車場は、3箇所ほどあり、なにかイベント開催時でなければ、クルマを止めるのには、苦労しないで済みます。
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駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
冬季は道路凍結しますので、スタッドレスタイヤ必須となります。
・越後・水原城(水原館・水原代官所) 水原親憲の活躍も
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