石戸城とは
石戸城(いしとじょう)は、埼玉県北本市石戸宿にある平城で、別名は武蔵・天神山城、足戸の砦(足戸砦)になります。
比高は6mほどですが、鎌倉街道上野道(こうずけみち)が、城の中を南北に通っていたようで、西側の荒川を舟で渡れば武蔵・松山城、川越城へも通じます。
その荒川の低湿地、また、東側・北側には深田があったようで、攻めにくい、天然の要害と言えるでしょう。
南からのみ登ってくれるため、南に5つの曲輪を配置していた模様です。
下記は荒川になりますが、草がうっそうと茂っていて、本流は見えませんでした。
最初の築城としては、長禄年間(1457年~1460年)頃に、扇谷上杉氏の太田資長(太田道灌)が築いて、藤田八右衛門が居城したと伝わります。
1525年、小田原城の北条氏綱が、太田資頼の岩槻城を落とした際に、太田資頼が石戸城に逃れたとあります。
1562年には、毛利丹後守が守備しており、北条氏政の命を受けた、鉢形城の北条氏邦が攻撃しています。
<注釈> 毛利丹後守は、翌年、上野・厩橋城主に抜擢される、北条高広(きたじょう-たかひろ)と推測されます。(毛利丹後守高広は大江広元の子孫)
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この時、攻撃側の北条勢は、一夜で沼地に堤(渡るルート)を築きました。(一夜堤)
しかし、毛利丹後守の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出し撤退したようです。
<注釈> 毛利丹後守は手負いが多く退散し、北条勢が攻め落としたともあり、その後、北条勢の依田大膳亮が入った可能性もある。
1563年2月には、北条氏康と武田信玄の連合軍が武蔵・松山城を攻撃しました。
太田資正は、越後・春日山城の上杉謙信(上杉輝虎)に救援を依頼したため、上杉勢は雪の国境を越えて、関東に入り上杉謙信らは、松山城を望める石戸城に入っています。
しかし、松山城が陥落したため、すぐに引き返したようです。
騎西城の成田長泰に命じて、北条勢の依田大膳亮が守る、足戸の砦(石戸城)を落城させたともあります。
しかし、翌年には、石戸城も北条勢の手に落ちていて、以後、小田原城が開城するまで、北条家の支配となりました。
<注釈> 依田大膳亮は北条氏邦の家臣で、1590年の小田原攻めの際に、足柄城を守備している。
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現在、石戸城跡の多くは私有地(民有地)であり、進入が困難なようなため、遠景撮影に留めました。
なお、平安時代末期には、離れたところに、源頼朝の異母弟・源範頼の館跡跡と伝わる石戸館が、別途あります。
交通アクセス
JR北本駅の西口から、北里大学メディカルセンター行きバスでに乗車して所要15分、自然観察公園前バス停下車して徒歩15分。
近くではないが、城ヶ谷堤(桜土手)から川に降りる道路があり、その先に、散策・釣り人向けの大きな未舗装駐車場と、新しいトイレがある。
可能であれば、石戸蒲ザクラ、石戸館跡(石戸神社)とセットで訪れたい。
・北条高広の解説~2度も上杉謙信に背くも2度復帰?
・武蔵・三ツ木城の解説 足立遠村(川田谷遠村)の屋敷跡か?
・武蔵・松山城 上田朝直 上杉/武田/北条/豊臣と何度も攻撃された松山城
・石戸館(源範頼館)の解説~生きていた源範頼が晩年を過ごした地なのか?
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