埼玉県

石戸館(源範頼館)の解説~生きていた源範頼が晩年を過ごした地なのか?

石戸館




石戸館とは

石戸館(いしどやかた)は、埼玉県北本市石戸宿にある平城・屋敷跡で、別名は堀の内館、石戸氏館となります。
源範頼が住んだ源範頼館ともされます。

源範頼館

源範頼(みなもと-の-のりより)は、源義朝の6男です。
鎌倉幕府の初代将軍になった、源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄と言う事になります。
源範頼は、1159年、平治の乱のあと武蔵国横見郡吉見郷を与えられて、その館は「吉見御所」と称されていました。
そのため、源範頼の領地としては、吉見荘が当てはまるかと存じます。





源範頼は、1193年、曾我兄弟の仇討のあと、家人の当麻太郎が、源頼朝の寝所の下に潜り込むなどし、謀反の疑いにて、狩野宗茂・宇佐美祐茂らに預けられて、伊豆・修禅寺(信功院)に幽閉されます。
そして、梶原景時らによって誅殺されたとされ、修善寺にも立派な墓(下記)があります。

源範頼の墓(修善寺)

しかし、実際には生き残っていたと言う説もあり、横浜・太寧寺で自刃した、伊予の河野氏を頼った、北陸に逃れた、吉見観音に隠れ住んだともあります。
<注釈> 吉見観音に匿われたのは幼少時とも伝わる。
ココ石戸の伝承では、石戸館にて余生を過ごし、1200年に亡くなったと言う話がある次第です。

源範頼の正室は、安達盛長の娘・亀御前です。
その安達盛長は、鴻巣あたりを領地としていたようですので、石戸も安達盛長の領地だった可能性はあるでしょう。





新編武蔵国風土記稿によると、石戸宿村の阿弥陀堂を石戸館跡としています。
阿弥陀堂は、現在の東光寺の場所で、国天然記念物「石戸蒲ザクラ」が有名です。

石戸蒲ザクラ

この石戸蒲ザクラは、源範頼の別称である蒲冠者(かばのかじゃ)から、石戸蒲と名付けられています。

石戸蒲ザクラ

なお、吾妻鏡では、石戸郷の領主は石戸左衛門尉(いしとのさえもんのじょう)とあります。
この石戸左衛門尉に関して、出自などは全く不明ですが、吾妻鏡は、結構、信用できる書物であるため、単純に、石戸氏の館と言うことかも知れません。
また、鎌倉幕府の御家人とあり、1245年、鎌倉・鶴岡八幡宮で開催された神事に参加したことが見受けられますので、源範頼が生きた時代から約50年後のことです。
単純に考えた場合、石戸氏は、安達氏の一族と言えるでしょう。
承久3年(1221年)、鎌倉幕府初代連署・北条時房が上洛した際に、安達景盛・毛利季光・石戸入道・本間忠家・伊東祐時・大見実景・宇佐美祐政・北条時盛らが従ったともあります。
そうそうたる有力武将の中に、石戸入道の名があるのですが、石戸左衛門尉は、関戸左衛門尉と言う安達一族と同一人物の可能性があるかも知れません。
<注釈> 鎌倉御家人の多くが「左衛門尉」となっているので、わかりにくい。

石戸氏館

源範頼の子である範圓・源昭は、比企尼の嘆願にて助命されて出家すると、母方の所領を継ぎ、その子孫が吉見氏となっています。
<注釈> 比企尼の娘・丹後内侍は、安達盛長の妻であった。

安達盛長の娘・亀御前は、荒川付近で自刃したとも伝わり、供養のために石碑と泉蔵院を建立したそうです。
それが、石戸館から少し北の方にある、高尾・阿弥陀堂と言う事になります。

高尾・阿弥陀堂

伝承によると、亀御前は、修禅寺にて源範頼が亡くなったことを知り、後を追うように自害したと伝わります。
もし、石戸館にて、源範頼が晩年を過ごしたのであれば、亀御前も、自刃したのではなく、普通に没した可能性もあることでしょうが・・・。

さて、訪問させて頂きまして、現地を歩いて、肌で地勢を感じますと、石戸神社がある場所だけに、屋敷があったとは思えませんでした。
全国、たくさんの城跡などを拝見させて頂いている直感的な感想であり、確証がある訳ではありませんが・・。

石戸館

実際問題、平安時代末期~鎌倉時代の有力武将の館は、結構、広いです。
建物がでかいと言う事ではなく、敷地が広くて、その中に、結構な広さの間隔で、いくつか、建物を配置していたと考えています。
住んでいるのは、武将ひとりではなく、家族、女中や家人も合わせると、少なくとも、数十人となりますので、建物も、何個も必要です。
恐らくは、石戸蒲ザクラがある場所も、敷地内であったと考慮しますと、やはり、源範頼クラスの重要武将の拠点だった可能性があるのではと感じてしまいます。
だいぶ離れている放光寺が、安達盛長館跡とされますが、この石戸館跡が安達氏の本拠と言われても、おかしくはないところです。
桜より南側は、少し低くなっており、館があった一帯は、微高地とも言え、荒川の洪水被害も、無い、良い場所だったのでしょう。

石戸館(源範頼館)

と言う事で、吉見も、源範頼の館としては、ぜんぜん、考えられるのですが、石戸も、同じく可能性を感じる次第です。
吾妻鏡では、源範頼が修善寺に幽閉されたとありますが、その後、殺害されたとはありません。
もし、源範頼が生き延びたとすると、修善寺で出家したと考えるのが、妥当ではあるのですが・・・。

なお、少し離れた北側には、戦国時代に合戦もあった石戸城があります。

交通アクセス

石戸館跡への行き方ですが、JR高崎線の北本駅から、川越観光バスのメディカルセンター行きに乗車して、終点バス停下車し、徒歩5分です。
駐車場はありませんが、石戸蒲ザクラ用の駐車場(グランドのようなところ)が通年利用でき、クルマをとめて徒歩3分といったところです。
駐車場からで見学所要時間は、約20分といったところです。
散策される場合や、駐車場の場所などは、当方のオリジナル関東地図を、ご参照頂けますと幸いです。
カーナビとしてもお使い頂けます。

お車でしたら、高尾・阿弥陀堂や、吉見の源範頼館跡もセットでどうぞ。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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