皆川城(みながわ-じょう)は、栃木県栃木市皆川城内町にある山城で、標高は148m、比高80mほどの城跡です。
別名は、城の形(かたち)から法螺貝城(ほらがいじょう)とも呼ばれます。
最初の築城は、鎌倉時代の寛喜年間(1229年〜1232年)に皆川宗員が築いたとされますが、現在の場所とは異なるところだった可能性もあります。
栃木の基を築いた皆川氏の租は、平安時代に唐沢山城を築いたとされる藤原秀郷とされますが、宗家は滅んだようで、その後、皆川氏を称した皆川秀光が、1394年に築いたともされます。
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戦国時代に入ると、宇都宮氏と、鹿沼城や下野・粟野城などの争奪戦を繰り返しました。
1523年、宇都宮興綱との川原田の戦い(河原田合戦で)で、皆川宗成が討死する痛手を負っています。
川原田の戦いでは、下記の皆川勢が命を落としました。
新井平馬、飯塚杢左衛門、石川文六、今泉重助、植竹弥七郎、氏家三河守、宇塚兵吉、遠藤与太郎、大橋惣助、岡島平六、小倉丹波助、風間平八、風見与左衛門、片柳兵庫助、萱葉孫太郎、河合文治郎、毛塚彦兵衛、小平大学助、小宮山四郎次郎、小安大膳允、近藤五郎、斉藤内蔵助、早乙女弥七、酒巻伊織助、塩田与三、白沢石島助、鈴木九郎左衛門、須長刑部左衛門、関根小五郎、高木三七、田島一学、田中次郎左衛門、飛田又治郎、中島右衛門、根岸右京進、野尻孫四郎、野尻宮内、野中左京進、羽山彦太郎、原一運、膝附玄蕃允、膝附大膳、松永太郎治、店星彦三郎、矢田彦太郎、山口縫殿助、山本文蔵、横倉伊豆守、若林九郎太郎
しかし、総崩れぎりぎりで持ちこたえ、合戦では皆川勢が勝利したともされています。
その後、皆川城主は皆川成勝となり、宇都宮氏に臣従しましたが、宇都宮俊綱と重臣・芳賀高経が対立すると、皆川成勝は従兄弟の富田城主・富田忠宗と、芳賀高経を味方して、宇都宮氏と敵対しましたが、その後、宇都宮氏に臣従もしています。
皆川俊宗の頃には、小田原城の北条氏康と結んだり、宇都宮広綱に寝返ったりしました。
1584年、北条勢の佐野氏が、下野・粟野城を陥落させたため、1588年、皆川広照は、斎藤秀隆ら2000余騎を派遣して下野・粟野城を総攻撃して落としています。
また、皆川広照は、栃木城の拡張を開始しており、川連城などと連携も図り、防衛強化に努めました。
そして、北条氏直の圧迫を受けると、草倉山にて3ヶ月に及ぶ長期籠城戦となり、徳川家康、佐竹義宣の仲介を経て北条氏に降伏しています。
以後、皆川広照は小田原城の北条氏に従っており、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めになると、小田原城に赴いて竹浦口を守備しています。
しかし、徳川家康と秘かに通じると所領安堵を得ました。
ただし、皆川広照が不在の皆川城などは、北国軍の上杉景勝らの攻撃を受けたようで、下野・粟野城など自落したと推測されます。
なお、皆川城内にあった金の鹿が、太平山に埋められたという伝説が残っています。
所領安堵となった皆川広照は、1591年に、本拠を栃木城に移したため、皆川城は廃城になりました。
南側にある皆川公民館の無料駐車場を利用できるようで、そこから皆川城は、ふるさとづくり特別対策事業にて公園整備されています。
本丸からは筑波山の展望も良いそうで、散策しやすくなっています。
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皆川城への交通アクセスですが、南側にある皆川公民館の場所がとても広く、砂利ですが駐車スペースが充分にあります。
そこから、皆川城の本丸まで、樹木も伐採されていて、とても城の様子もよくわかりました。
駐車スペースは、当方のオリジナル地図でもわかるようにしておきます。
時間があれば、登りたかったのですが、日暮れが近かったため、栃木城へ向かいました。
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・下野・西方城 激戦となった皆川氏と宇都宮氏の舞台
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