栃木県

下野・粟野城 斉藤秀隆討死の激戦地

下野・粟野城

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下野・粟野城とは

下野・粟野城(あわの-じょう)は、栃木県鹿沼市口粟野にある城跡で、別名は涛速城と言います。
標高は247m、比高110mの山城で、最初の築城としては、平安時代末期の治承年間(1177年~1181年)に、足利忠綱?が築いたとされます。
別の説では、暦応年間(1338年〜1342年)の南北朝時代初期に、足利尊氏に従っていた佐野氏の家臣である平野範久(平野将監範久)ともされます。
まぁ、最初に、下野国足利荘の足利忠綱(没年1194年とも)が関与していて、その後、平野範久が改修したと言う事でしょう。


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戦国時代には、宇都宮城の宇都宮氏に従っていた平野氏でしたが、皆川城を本拠にした皆川氏に押されてきます。
1523年、川原田の戦い(河原田合戦で)で宇都宮興綱が皆川氏に勝利していますが、平野氏の動向は不明瞭です。
その後、皆川城主は皆川成勝となっていますが、宇都宮氏に臣従していますので、平野氏も皆川氏と共に宇都宮氏に仕えることになったものと推測されます。

下野・粟野城主としては、斉藤秀隆(斉藤左衛門秀隆)の名がありますが、皆川氏の一族のようです。

しかし、皆川俊宗の頃には、皆川氏は宇都宮氏と敵対しており、小田原城北条氏康と結んだり、宇都宮広綱に寝返ったりしています。
そのため、下野・粟野城も合戦に巻き込まれた模様です。

下野・粟野城

1584年には、北条勢の佐野氏が、下野・粟野城を急襲して奪うと、かつての粟野城主・平野範久の子孫になる平野久国(平野大膳久国)を入れています。

1588年、皆川広照は、斎藤秀隆ら2000余騎を派遣して下野・粟野城を総攻撃して陥落させると、落合徳雲入道を守将としました。
この時は、斎藤秀隆が討死するも皆川勢が勝利すると言う激戦だったようで、焼けた下野・粟野城では、死体が山をつくり、死臭がひどく、里人の往来が消えたと言う伝承が残っています。
この粟野城の戦いで討ち死にした皆川勢は下記の通りです。

石山孫次郎、落合彦左衛門、栗原新六、軍士新三郎、塩田次郎左衛門、高野又次郎、長井新左衛門、野原助九郎、膝附玄番允、星野小治郎、増山三郎左衛門、森沢小治郎


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1590年、豊臣秀吉小田原攻めになると、皆川広照は北条氏直の要請に応じて、小田原城に赴いて竹浦口を守備しています。
しかし、徳川家康と秘かに通じて、所領安堵を得ました。
ただし、皆川広照が不在の皆川城などは、北国軍の上杉景勝らの攻撃を受けたようで、下野・粟野城も自落したと推測されます。

下野・粟野城

交通アクセス

下野・粟野城への交通アクセス・行き方ですが粟野城の中腹には、城山スカイローラー(滑り台)がある「城山公園」があり、無料駐車場・トイレもあります。
その駐車場の脇に空堀・土塁などがあるようで、頂上(防空監視哨跡)までは本丸跡を経由して徒歩10分ほどのようです。
薮蚊が多いとの事前情報があったのと、訪問時は7月上旬の梅雨の時期で、土砂降りだったため、登城は自粛し、麓からの撮影に留めました。

太平洋戦争末期には、山頂に防空監視哨が設けられたと言う事ですが、栃木県内だけで40箇所以上、防空監視所があったそうです。

この後は、下野・諏訪原城へ向かいました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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