駿河・深沢城
駿河・深沢城(ふかさわじょう)は、静岡県御殿場市にある平城です。
今川氏親が相模との国境警備と、足柄街道の抑えとして深沢城を築城したとありますが、それ以前から小規模な城があったものと推定されています。
一説によると、深沢氏の館があったとか・・。
その後、戦国時代になり、今川氏親が駿河・深沢城を整備したとあります。
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1568年12月6日に、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して、今川家の駿河へ侵攻しました。
このとき、今川氏真を掛川城へ追いやることに成功し、駿河・深沢城も武田勢によって占領されたようです。
武田信玄は、今川家を滅亡させましたが、駿河の支配を確立できず、甲斐に引き上げましたので、小田原城の北条氏が深沢城を手に入れた模様です。
そして、北条氏政(北條氏政)は深沢城の改修を行ったようで、北条綱成と松田憲秀に守らせますが、1569年6月、再び武田信玄は駿河に入ると、深沢城を攻撃しました。
この時、深沢城は落ちなかったため、武田信玄は矛先を変えて、駿河・大宮城(富士市)を7月に攻略するに留まります。
駿河・大宮城主には原昌胤が入っており、富士郡支配は原昌胤や市川昌房が務めました。
そして、小田原城を一時包囲すると言う快挙を果たした武田信玄は、三増峠の戦いのあと甲府に戻ると、またすぐの1569年11月に駿河に再び侵攻し、横山城、蒲原城などを落として駿府を再占領しました。
不利になった北条家は、普段は課役しない寺社領にまで人足を出させて、深沢城の普請などを行っています。
そんな中、武田信玄は1570年1月には駿河西部に進出し、花沢城と徳之一色城(駿河・田中城)を落として、駿河を完全に支配下に置いています。
駿河・田中城には山県昌景が入り、改修していますが、徳川家康は本拠を移して浜松城の築城を開始しました。
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なお、この間、深沢城も一旦武田勢が攻略し、駒井昌直(駒井政直、駒井右京之進昌直)が入り、足柄城・河村城・大仏城山・湯ノ沢城・中川城も落城したと伝えられています。
しかし、1570年4月に北条氏康・北条氏政は38000にて深沢城を奪還したと推測されるため、足柄城や河村城、中川城なども奪還したのでしょう。
1570年8月になると、伊豆の韮山城にまで武田勢は侵入し、12月には再び深沢城を攻撃したため、北条家は世田谷城主の吉良家の家臣。江戸氏らに出陣を命じています。
北条氏政の自ら援軍として深沢城の後詰をするため、1571年1月10日に出陣しますが、深沢城は残り「一曲輪」(本丸のみか?)となり、1月16日に北条綱成は降伏開城して、足柄城へ撤退します。
この時、武田勢は金堀衆(かなほり)を動員して、深沢城の本城外張(ほんじょうとばり)まで、掘り崩した模様で、のちに金山衆は各種税の免除が特権として与えられています。
なお、深沢城を失った北条家は相模防衛の最終ラインとして、足柄城と河村城の改修を行っています。
武田信玄は深沢城を修復し、駒井昌直(駒井政直)を深沢城主とすると、足柄城の偵察などを命じられています。
1571年10月3日に北条氏康が死去した際「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされ、12月27日、北条氏政は武田信玄と同盟しました。
その後、深沢城には駒井昌直(駒井政直)の他、駒井宮内大輔、内山城主・小山田虎満の子である小山田大学助も在城したことが伺えます。
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1573年、三方ヶ原の戦いで勝利した武田信玄も病にて没し、1575年には武田勝頼が長篠の戦いで敗れ、1578年には、越後の御館の乱にて、甲相同盟は再び崩壊します。
そして、1579年8月、武田勝頼が三枚橋城(沼津城)を築城し、小笠原信嶺、高坂源五郎(春日昌元)、曽根昌長、堀内政豊らを配置すると、再び最前線の深沢城にも緊張が走ります。
特に、1581年10月には、北条家の伊豆・戸倉城主である笠原政堯(更科六兵衛のモデル)が、武田家に寝返っています。
しかし、1582年に2月に武田滅亡となると、深沢城の将兵は逃亡し、その後、深沢城は駿河を制した徳川家の支配下となったようで、1584年の深沢城主は、徳川家の譜第の家臣・三宅康貞と見受けられます。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、箱根の山中城や足柄城が陥落すると、深沢城は役目を終え破却されました。
深沢城
深沢城は宮沢川と抜川の合流地点の丘上に築かれており、3方は天然の堀となっています。
下記は深沢城への入口付近にある三日月掘りです。
ただし、繁みに覆われていますので、写真ですとなおさら良くわかりません。
三日月堀は武田特有の堀ですので、武田家が占領した際に、造営したのでしょう。
農道のような道を進みますと、三の丸の右手に馬出しが見えてきます。
その馬出しの奥部には歌碑もあるようです。
平城ですので、特別な登山装備などは不要です。
下記は下馬溜ですので、馬小屋でもあったのでしょう。
更に進みますと、両側が堀となっており、二の丸への分岐に差し掛かります。
分岐はどちらの道を進んでも本丸に通じていますので、行きと帰りで違う道を通ってみました。
二の丸脇には食糧庫があったようですので、城での生活の場は二の丸だったのでしょう。
下記は二の丸から本丸に通じる土橋ですが、軽トラが通行できるようにしたのか、土橋にしては幅が広いです。
本丸に到着しました。
本丸跡からは、発掘調査にてほとんど遺物が出なかったことから、遺物が出た二の丸が本丸機能だったのでは?という説もあるようですが、地形と土橋・その周りの堀切から見て、本丸はやはり東の先端のこの台地でしょう。
本丸も結構広いですが、私有地ですので水田が広がっています。
本丸は、戦闘時に籠る場所であり、普段の生活は二の丸であったすれば、二の丸から遺物が多く出るのも理由がつきます。
櫓も置かれていたのでしょうか?
本丸からも富士山を望めました。
深沢城と言うくらいですので、深い沢があるはずなのですが、江戸時代の富士山噴火で多少埋もれてしまったのか、あまり深い谷があるようには感じません。
もともと、葛山氏の庶流と推測される深沢氏城館があった場所が、深沢城だとする説もありますが「館」であれば、場所は別の所だったのではと感じます。
と言うのも、北条家書状を見ますと、深沢城の事を「深沢新地」と書いていますので、明らかに新城として駿河・深沢城を築城したと推定できます。
あと、道路に戻って、三の丸の西側へ入ると、見事に現存している三日月堀があります。
下記です。
と言う事で、深沢城は、北条家と武田家の築城術が垣間見えて、なかなか面白いです。
しかも、西側に三日月堀を設けていますので、谷となっている川を越えるのではなく、やはり西側から攻められるのが、正攻法と言えます。
見学所要時間は約40分、下記の縄張り図を見ながら歩くとわかりやすいです。
深沢城への交通アクセス・行き方
深沢城も街道の抑えですので、足柄街道の近くにあります。
なお、深沢城の城域は私有地である為、駐車場やトイレはありません。
止めるとしたら、三日月堀があり、深沢城への入口となる下記の地図ポイント地点付近の路肩に1~2台程度しかありません。
駐車禁止ではないようなので、消防車の通行の妨げとならないようになど、住民の方に迷惑を掛けないよう配慮して止めたいところです。
また、深沢城内には水田もあり、訪問した際には農家の方にお会いしたので、大きな声で挨拶し「ありがとうございます」と御礼も申し上げました。
下記地図の下部には、移築されたと言う深沢城の「城門」を引き続きご紹介致します。
深沢城の「門」とされるものが、付近に寺院2箇所に、移築されていますので、合わせて訪問してみました。
大雲院の山門
大雲院の山門は、関東大震災で倒壊し、のちの昭和23年に復元再建されたとの事ですが、深沢城の大手門を移築したものです。
なお大雲院土居とも呼ばれ、深沢城に移る前の、深沢氏の居館跡とも考えられます。
大雲院の無料駐車場は下記の地図ポイント地点の場所となります。
十輪寺の山門
十輪寺の山門は、深沢城搦手門であったとの伝承があります。
十輪寺は、ちょっと離れた場所となります。
下記の地図ポイント地点の道路から一本中に入ったところに、車を止めれるスペースがあります。
・深沢城の戦い 武田信玄の駿河侵攻
・足柄城 本丸から望む素晴らしい富士山は絶景
・長久保城の歴史~今川家・北条家・武田家が奪い合った最前線
・葛山氏広 葛山氏元 葛山信貞 葛山氏一族の栄華
・北条氏康と瑞渓院とは~文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名
・早川殿とは~北条家から今川家に嫁いだ北条氏康の長女の運命
・興国寺城~巨大な堀切と高い土塁に囲まれたココから戦国時代が幕を開けた
・河村城 畝堀(障子堀)や深い堀が見事な山城
・小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
・伊豆・戸倉城~伊豆と駿河の国境にある戸倉城こそが更科六兵衛の居城だったか?
・武田信玄と武田家ゆかりの城・寺院・合戦場・隠し湯など一覧
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