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駿河・大宮城のちょこっと解説~富士信忠・大宮城の戦い・富士信通

駿河・大宮城




駿河・大宮城とは

駿河・大宮城(おおみやじょう)は、静岡県富士宮市元城町にある平城(館跡)になります。
別名は、富士城、大宮神田砦、富士屋敷、神田屋敷とも言います。
発掘調査では建物跡・溝跡・土塁跡・堀跡・井戸跡などや、3万点以上と言う大量のかわらけなどが見つかっています。

駿河・大宮城

最初の築城は不明ですが、すぐ近くに富士山本宮・浅間大社が隣接しており、富士大宮司が住む屋敷が、時代の流れと共に、神田曲輪が築かれるなど、城郭化していったものと考えられます。
ただし、平城ゆえに、堀と土塁程度の防御性しかなかった模様です。
富士大宮司を世襲していたのは、富士氏で、始祖は孝昭天皇の後裔・和邇部氏(わにべの-し)と伝わっているようです。
奈良時代の天平神護(てんぴょうじんご)年間(765年~767年)に、和邇部宿禰宗人が駿河掾に任じられ、その子・豊麻呂が、富士郡大領をつとめたことが、知られます。





戦国時代に、富士氏は、駿河の大名・今川氏に従っており、駿河・大宮城は、甲斐の武田勢に備える重要拠点となりました。

富士信忠

富士山本宮浅間大社の富士大宮司である富士信忠(ふじ のぶただ)は、花倉の乱の際に、栴岳承芳(今川義元)を支持しています。
1561年、今川氏真は、富士信忠(富士兵部小輔)を、駿河・大宮城主に、任じました。

駿河・大宮城

そして、武田信玄が、駿河に侵攻開始しても、しぶとく、今川家を離れることなく、従っています。

今川家は滅亡すると、富士氏は小田原城北条氏政の庇護・援護を受けており、1568年12月、武田の攻撃があると戦功を賞されています。

大宮城の戦い

武田勢は、1568年12月、1569年2月、1569年6月と、3回に渡り、駿河・大宮城を攻撃しました。
3回目の攻撃では、北条氏も援軍を出せなかったことから、降伏するように書状で勧めています。
穴山信君によって、富士氏は降伏すると、武田信玄は、駿河・大宮城に本陣をおいて、さらに蒲原城への攻略を進めました。
また、穴山信君は、大規模な外堀を築くなどの改修を行っています。





駿河・大宮城を失った富士信忠は、北条家から伊豆国河津の領地を与えられました。
1576年の文書には、富士相模入道とあることから、出家していたようで、家督は子の富士信通が継いでいたと考えられます。

駿河・大宮城

富士信忠の没年は1583年。

富士信通

なお、富士信通(富士信忠の子)は、蒲原城の戦いで、今川勢として籠城しており、1571年10月、今川氏真は、富士信通に暇を与える旨の感状を与えているのが、見られます。
その後、富士信通(ふじ のぶみち)は、穴山信君の配下に加わったようです。
弟には、織田氏の娘を妻にした富士信重と、富士信定。
子に富士信家がいます。





1573年、武田勝頼は、富士信通に、200貫の所領を与えていますが、武将と言うよりは、富士大宮司としての活動が主となったようです。
1582年、武田氏が滅亡した際に、浅間大社も焼失したようで、駿河・大宮城も、城としては、使われなくなったようです。

富士宮市立大宮小学校も、駿河・大宮城の城域だったようで、北には、城山富士浅間神社もあります。

駿河・大宮城

しかし、遺構などは、残されていません。

交通アクセス

富士宮駅から、約650m、徒歩10分くらいの距離です。
以外と、城域は広いので、レンタサイクルなども検討できると良いかと存じます。
もちろん、富士山本宮・浅間大社とセットでどうぞ。
駐車場は、浅間大社の有料駐車場など利用となります。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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