滋賀県

朽木氏岩神館 旧秀隣寺庭園(足利庭園) 朽木元綱

朽木氏岩神館

スポンサーリンク



朽木氏岩神館(くつきし-いわがみやかた)は、滋賀県高島市朽木岩瀬にある丘城で、秀隣寺庭園とも呼ばれます。
標高は215m、比高は10mほどで、現在の朽木・興聖寺境内一帯が城跡になり、秀隣寺と言うのは岩神館とともに室町幕府将軍を迎える施設として作られた寺院であったと言う事になります。
その旧秀隣寺庭園(足利庭園)は国の名勝に指定されており、近江・朽木氏岩神館は国の史跡となっています。


スポンサーリンク



最初の築城時期は不明ですが、朽木氏(くつきし)は、佐々木信綱の子・高島高信(近江・清水山城)の次男・高島頼綱を祖としており、高島頼綱の3男・朽木義綱が鎌倉時代に朽木庄を領して朽木氏を称しました。
また興聖寺(こうしょうじ)も、佐々木信綱が建立したとされます。(ただし、現在の場所には江戸時代の1729年に移転してきた。)
朽木氏は、宗家・高島家を筆頭にした高島七頭に数えられています。

朽木氏岩神館

鎌倉幕府が滅亡するといち早く足利尊氏に協力しており、室町幕府が開かれると、近江守護の同族である六角氏から、朽木氏は独立した勢力であり、直接、足利将軍に従っていました。
しかし、戦国時代に差し掛かると、次第に観音寺城の六角氏の支配下に組み込まれていきました。
詰の城としては、朽木西山城を整備したようです。


スポンサーリンク



1507年に細川政元が暗殺されると、室町幕府第11代将軍・足利義澄が朽木稙綱(くつき-たねつな)を頼って朽木谷に逃れています。
1528年、三好長基が反乱を起こすと細川晴元・三好元長の追撃から逃れるため、室町幕府12代将軍・足利義晴は朽木晴綱(くつき-はるつな)を頼り、約3年間秀隣寺に滞在しました。
これらの功績で、朽木氏は将軍の御供衆に加えられて政治的な決定に関与し、失っていた所領の多くを回復しています。
佐々木家の一族である京極高秀や浅井亮政、朝倉孝景などや管領・細川高国が将軍を慰めるため、秀隣寺に庭園を築いたとも伝わります。

旧秀隣寺庭園

庭園の上部には谷水が注がれ「鼓の滝」となっており、下流には曲水にし、池の中には鶴と亀の島を配しました。
そして、楠の化石の石橋をしつらえた風情は、築庭当時の姿を留めています。
秋には紅葉も大変すばらしいと存じます。

旧秀隣寺庭園

朽木元綱のとき、1553年から、三好長慶京都を追われた13代将軍・足利義輝も、細川幽斎と共に6年間、ここに落ち延びていました。

興聖寺

朽木元綱(くつき-もとつな)は、1566年に近江・小谷城浅井長政が高島郡に侵攻した際には、人質を出して降伏しました。
足利義昭を奉じて織田信長が上洛を開始すると、観音寺城の六角義賢大敗して没落して行き、1569年頃には浅井家との盟約も破棄して独立を維持しています。
三好三人衆が将軍・足利義昭を襲撃した際に、朽木元綱は兵を出して将軍のもとに駆けつけています。

1570年、織田信長は朝倉攻めを開始して、金ヶ崎城を落としますが、小谷城の浅井長政が裏切ります。
そして、金ヶ崎城から織田信長が撤退する際には、松永久秀の説得を受けて朽木元綱は織田勢の京都撤退(朽木越え)を助けました。
その後は織田勢に従っており、磯野員昌津田信澄の軍勢に加わっています。
1579年、一時、織田家から罷免されましたが、本能寺の変のあとは豊臣秀吉に仕えました。
1590年、小田原攻めにも参陣し、朽木谷城2万石を安堵されています。


スポンサーリンク



1600年、関ヶ原の戦いでは、当初、敦賀城主・大谷吉継に従って西軍に加わりました。
関ヶ原の本戦では脇坂安治小川祐忠赤座直保ら布陣しましたが、小早川秀秋が寝返ると一緒に東軍に寝返りました。
ただし、内通を事前にを明らかにしていなかったとの理由で、9590石に減封となっています。
また、朽木家は関ヶ原に参じていなかったのではとする説もあります。

1万石以下になったことで大名ではなくなり交代寄合として遇されましたが、独自に陣屋を持つことを認められて大名に準じる扱いを受け、別の場所に朽木陣屋を儲けました。
朽木元綱は大坂の陣に参じたあと、1616年に剃髪して牧斎と号し、1632年に朽木谷にて死去しています。享年84。
乱世の中、京からも近い朽木谷をよく保ったことは評価できるでしょう。

朽木谷

朽木元綱の長男・朽木宣綱(くつき-のぶつな)の正室は、京極高吉の娘(京極高次の妹)・マグダレナです。
1606年に京極マグダレナが死去すると、菩提を弔うために秀隣寺に周林院と墓を建立しています。

朽木元綱の3男・朽木稙綱は、江戸幕府で若年寄まで出世し、下野・鹿沼城にて2万石の大名となっています。


スポンサーリンク



現在、朽木氏岩神館跡(旧秀隣寺庭園)は、興聖寺さんの境内となっています。
この興聖寺は朽木氏の菩提寺でもあり、本堂内部の有料拝観が可能です。
下記のドアにあるインターフォンを鳴らすと、係員さんが出てきて頂けて、10分ほど、内部の案内(説明)もして頂けます。

興聖寺

朽木氏岩神館跡への交通アクセス・行き方ですが、JR安曇川駅から朽木線バスにて、岩瀬バス停下車し、徒歩約3分です。
安曇川駅の西口を出て右手の観光案内所には、レンタサイクル(貸自転車)もありますが、13時に閉まります。
クルマの場合には、朽木・興聖寺の広い無料駐車場(約50台程度)が利用でき、トイレも完備されています。
その駐車場から少し坂道を上がって行く感じです。
駐車場の入口は、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

朽木城(朽木陣屋)とセットでどうぞ。

足利義輝とは わかりやすく3分で解説
朽木城(朽木陣屋) 朽木西山城
朽木元綱とは~織田信長の退却を助けた湖西の朽木領主
熊川城 沼田麝香のふるさと? 沼田光兼も
敦賀城 大谷吉継が整備した若狭の平城
越前・金ヶ崎城「金ヶ崎の戦い」織田信長最大のピンチ?


スポンサーリンク



コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

都道府県別


スポンサーリンク

只今人気のお城

城めぐり 2400城超えました

城めぐり
PAGE TOP