福井県

熊川城 沼田麝香のふるさと? 沼田光兼も

熊川城

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熊川城(くまがわ-じょう)は、福井県三方上中郡若狭町熊川にある標高185m、比高100mの山城です。
若狭街道が通る熊川宿を見下ろす山の中腹に築かれています。

諸説ありますが、上野・沼田城の沼田一族が鎌倉時代に移り住んだのが始まりとされます。
そして、戦国時代には、若狭守護で後瀬山城主の若狭・武田氏に従っていました。
若狭・熊川城は、永禄年間(1558~1570年)に築城されたと言う事になります。


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沼田統兼(沼田弥七郎統兼、沼田光兼、沼田宗兼)又は沼田清延(沼田勘解由左衛門清延)が築いたとされますが、古くからあった城を改修したと言う事かも知れません。
まお、熊川城と申しますと、佐賀の熊川城や、朝鮮の倭城である熊川城もありますので、混同しないよう注意が必要です。

1562年(1569年とも?)、瓜生城主・松宮清長(松宮玄蕃允)が、若狭・沼田氏を攻撃したため、近江へ逃れると、熊川城は松宮氏の支城となりました。
恐らくは、武田義統粟屋勝久逸見昌経らの反乱に対している時期であるため、若狭・沼田氏は武田信方に加担していたので、攻撃を受けたと推測されます。

熊川城

近江に逃れた際に、どうやら、京にて幕臣として将軍・足利義輝に仕えていた藤川藤孝と面識を得た?ようで、沼田光兼の娘とされる沼田麝香(ぬまた-じゃこう)19歳が、細川藤孝の正室になりました。
そして、1563年に嫡子・細川忠興が生まれました。
このように、沼田光兼(沼田宗兼)は、丹後・田辺城の細川家を頼って、客将になったとも伝わります。
沼田光兼の子とされる沼田祐光は、津軽・大浦城主である津軽為信の軍師となり、1575年の大光寺城攻めなどで活躍したとあります。
ただ、若狭・沼田氏の動向などは不明瞭な点が多いです。

熊川城

なお、松宮左馬亮が熊川城主となっていましたが、1570年に織田信長が越前・朝倉氏攻める際に、松宮家は臣従しました。
そして、織田信長が熊川城で宿泊したともあり、麓の得法寺には徳川家康が泊ったと言う事で「家康腰かけ松の跡」と説明板があるようです。
このように松宮清長は、織田勢として転戦し、武田元明に随従して上京もしましたが、若狭衆に加わって越前一向一揆を鎮圧したあと、他の若狭衆の武将にもみられるように、取り潰しにあったようで、消息がわからなくなっています。

丹羽長秀が後瀬山城に入って若狭を支配すると、1584年に熊川城は廃止された模様です。

麓にある熊川宿(くまがわしゅく)は、1589年に浅井長政が小浜城に入った際に、若狭街道を整備して築いた街です。

熊川宿

沼田清延(沼田延元、沼田勘解由延元)が、その後も細川家の重臣として、丹後・中山城主になっており、のち門司城主になると佐々木小次郎にも関わっています。

熊川城への交通アクセス・行き方ですが、JR西日本の湖西線にて、近江今津駅、今津駅バス停から、西日本ジェイアールバスの若江(じゃっこう)線乗車します。
そして、約30分、若狭熊川バス停にて下車して、登城口の白石神社までは徒歩約3分です。
駐車場は、熊川宿の観光用駐車場を利用可能です。

登城口は白石神社の境内にあります。
足場も悪く、獣も出るようですので、登城は自粛しました。
トレッキングポールは必須のようです。

麓にある得法寺には熊川城主だった若狭・沼田氏の供養塔と伝わる墓塔があります。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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