津幡城(つばた-じょう)は、石川県河北郡津幡町清水にある平山城です。
津幡川の右岸の小高い丘にあり、眼下には旧北陸道・七尾街道を見下せる絶好の場所です。
オオニシヤマと呼ばれる比高15m程の丘陵になっています。
加賀・津幡城より北東側は能登であり、国境の城で、尚且つ、北陸道の抑えであったと考えられます。
スポンサーリンク
1183年には、木曽義仲(源義仲)の軍勢が、般若野の戦いにて平盛俊を破ったため、平氏は少し退却して国境の砺波山に布陣しました。
そこを、木曽義仲の軍勢が攻撃を仕掛けたて、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげ)になります。
平家の軍勢の多くは、倶利伽羅峠の断崖から谷底に転落して壊滅しました。
この合戦の前からだとは思いますが、平家が小高い丘に砦を設置したのが、津幡城の始まりと考えられます。
木曽義仲は続いて、片山津の篠原の戦いでも勝利し、京へ進撃したのでした。
その後、鎌倉時代初期では、井上庄の地頭になった津幡隆家(都幡小三郎隆家)が本拠にしたようです。
南北朝時代の1351年には、加賀守護の富樫氏春が津幡城に籠城して、桃井直常と戦い、桃井氏の上洛を断念させています。
そのあと、津幡城が歴史に出て来るのは戦国時代になり、加賀一向一揆が拠点のひとつにしていたようです。
1576年、春日山城主の上杉謙信が越中から入ると、上杉勢は津幡に陣を張っています。
1581年には、織田勢が加賀に侵攻し、柴田勝家、佐久間盛政、長連龍のらが津幡城を包囲して落城しました。
その後、一時廃城になったようですが、1583年、前田利家が金沢城に入ると、越中の佐々成政との対立が高まったため、前田家は津幡城を改修しています。
そして、弟の前田秀継を7000石にて津幡城主としました。
この前田秀継(まえだ-ひでつぐ)は、前田利春(前田利昌)の6男となります。
1584年、佐々成政が能登・末森城を攻撃すると、金沢城から救援に向かった前田利家の軍勢は、まず津幡城に入って軍議を行いました。
そして、末森城の戦いにて前田勢は勝利を納めますが、前田秀継と子の前田利秀は、倶利伽羅峠の防衛拠点である龍ヶ峰城も攻略して、佐々平左衛門を敗走さています。
1585年、前田秀継は、新しく築いた今石動城に移ると、佐々勢5000に攻められましたが、今石動城の戦いでも劣勢ながらも援軍が到着するまで持ち堪え、神保氏張、佐々平左衛門らは撤退しています。
このときは、豊臣秀吉からも褒められて、黄金100両と御道服を授かりました。
そのあと、豊臣秀吉が自ら10万の大軍を率いて、佐々成政を攻めて降伏させると、前田秀継は40000石にて越中・木舟城主となりました。
こうして、津幡城は使われなくなった模様です。
ちなみに、1585年11月29日、天正地震が発生します。
この大地震では、飛騨の帰雲城は山崩れで埋没し、大垣城は火災が発生し全焼、伊勢・長島城は倒壊、近江・長浜城や尾張の蟹江城は壊滅しました。
木舟城でも建物が全壊し、前田秀継と長齢院(竹野氏の娘)の夫妻は圧死しました。
少ない兵力でも城を守り抜いているなど有能だったようですが、残念ですね。
その後、子の前田利秀が家督を継いでいます。
現在の津幡城跡は、津幡小学校になっています。
校内に城址碑と案内板がありますが、早くから廃城になったせいか、遺構はほとんど残っていないようです。
スポンサーリンク
津幡城への交通アクセス。行き方ですが、JR七尾線本津幡駅から徒歩約5分。
津幡小学校にある来客用の駐車場がありがたく利用できます。
隣接して、津幡の歴史や倶利伽羅峠の戦いに関する展示がある「ふるさと歴史館れきしる」も時間があればお勧めです。
・佐々成政~織田家のエリート武将も、最後は悲劇な人生を送った
・越中・木舟城 石黒成綱の本拠地も天正地震で再建不能に
・能登・末森城 土肥親真 能登の末森城の戦い
・帰雲城 大地震で埋没し行方不明になった内ヶ島氏理
・金沢城を一周するポイント 尾山御坊跡
この記事へのコメントはありません。