富山県

富崎城 神保長職の本拠だった城跡か?

富崎城

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富崎城(とみさき-じょう)は、富山県富山市婦中町富崎にある標高92mま平山城で、戦国時代には「滝山城」(瀧山城)と呼ばれていました。
他にも、福山城・神保城と言う別名がありますが、富山市立城山中学校の西側にある、比高50~60mほどの丘になっています。

最初の築城は不明ですが、1441年、神保八郎左衛門(神保八郎佐衛門)が築いたとされます。
このように、越中守護代・神保氏の重要拠点のひとつでした。
戦国時代になると、神保長職が天文年間(1532年~1555年)に、本格的な城へと改修したと考えられています。

富崎城

しかし、上杉謙信が越中に侵攻した際に落城し、神保長職は近くの蓮華寺の深沼で討死したと伝承があるようですが、替え玉かも知れません。
ただし、通例の場合、神保長職は1562年に上杉謙信に降伏し、その後は越中・増山城に本拠を移したとされます。
神保長職が没したあとには、旧臣の水越勝重が一向一揆と共に、富崎城にて籠城しましたが、再び上杉勢に攻略されました。
その後、上杉家が城を焼き払い破却たようですが、再び改修されて上杉勢が活用しました。

1581年には、神保家旧臣の寺島盛徳(寺嶋牛之助)・小島甚介の兄弟らが拠点にて、織田勢に抵抗しましたが、攻撃を受けると城に火を放ち、五箇山へ落ち延びたとも、越中・大道城に逃れたともされます。
そのあとは、佐々成政の領地となり、城生城の斎藤氏攻略の拠点として使用されたようですが、やがて廃城になった模様です。

東麓にある本覚寺は神保長職の菩提寺です。
本覚寺にあった梵鐘は、富山城の鐘よりも音色が素晴らしかったので、佐々成政が怒って、鐘の内側に砂を焼き付けたと言う伝承が残ります。


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富崎城への交通アクセス・行き方ですが、城跡の東側にある本覚寺の裏手に道路が伸びていて、城域までクルマで入っていけるようです。
と、わかったのは、帰宅してからでして、予定外の訪問であったため、外観だけを北側の山田川付近より、撮影するにとどめました。
なお「丘の夢牧場」と言う民有地になっているようですので、不法侵入にならないよう、許可を得るなど注意が必要かも知れません。

電車の場合には、富山駅から路線バス「長沢回り八尾行き」に乗車して、富崎バス停下車の徒歩5分となります。

このあとは、蜷川館に行きました。

富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住
放生津城 神保慶宗と越中守護代家神保氏
増山城 攻防が続いた続日本100名城で広大な富山の山城
佐々成政~織田家のエリート武将も、最後は悲劇な人生を送る
蜷川館 一休さんに登場する「蜷川新右衛門」ゆかりの城跡
城生城 斎藤信利と斎藤信吉
オリジナル北陸史跡マップ


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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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