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鍋倉城(遠野城)
陸奥・鍋倉城(なべくら-じょう)は、岩手県遠野市にある山城で、標高は344m、比高は80mになります。
別名は、遠野(とおの)にあることから遠野城、陸奥・横田城、とも呼ばれます。
遠野は鎌倉時代の初めから阿曽沼氏(あそぬまし)が治めていました。
ずっと、遠野の北にある陸奥・横田城を本拠としていましたが、たびたび猿ヶ石川が洪水を起こすことから、鍋倉山に新城を築いたのが戦国時代となります。
遠野十二郷(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森・大槌・釜石)を支配する大勢力になった阿曽沼広郷が築城としたされます。
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このとき、新城においても旧居城の名前を使用したため、陸奥・横田城とも呼ばれるのが由来です。
と言う事で、戦国時代には、鍋倉城とは呼ばれておらず、新横田城でした。
阿曽沼広郷(あそぬまひろさと、遠野孫二郎)は武勇にも優れた武将だったようで、1579年には当時、内大臣に就任した織田信長に使者を出して白鷹を贈ったりもしています。
また、陸奥・岩谷堂城の江刺重恒を攻めるなどしましたが、内部では一族の鱒沢城主・鱒沢氏らの統制に苦慮したようです。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、小田原城に参じなかったことから、領地没収になるところでしたが、蒲生氏郷らの助けもあり、南部家の家臣と言う立場が認められて存続しました。
以後は南部家に従っており、1591年、九戸政実の乱では、大槌城主・大槌広信(大槌孫八郎広信)らを従えて、子の阿曽沼広長が南部信直の南部勢として参陣しました。
その間、九戸左馬助が城主であった可能性があります。
1600年、関ヶ原の戦いの際、徳川家康に味方した南部利直は、最上義光を救援するため山形に軍勢を出します。
このとき、跡を継いでいた阿曽沼広長も南部勢として出陣しましたが、阿曽沼一族である鱒沢館(鱒沢城)主・鱒沢広勝が裏切ります。
鱒沢広勝(鱒沢佐馬助広勝)の妻は南部利直の妹であることからか、南部氏の策略の可能性もありますが、がら空きの遠野を占領します。
帰路の途中で謀反を聞き、五輪峠も封鎖された阿曽沼広長は、大船渡近くにある妻の実家である世田米修理の世田米城にやむを得ず帰還します。
なお、妻子らは遠野城を脱出しましたが、その途中、江刺郡境の五輪峠で殺害されたとあります。
阿曽沼広長は、葛西氏の残党などの支援を得て、大槌孫八郎らと旧領奪還の兵を上げました。
阿曽沼勢は、先鋒の浜田喜六が討死、鱒沢勢も鱒沢広勝が戦死する激戦で緒戦は引き分けになったと言います。
その後、阿曽沼勢は篠木丹後・横田大学・及川土佐・只野民部らが遠野城を攻めましたが、鱒沢広勝の子・鱒沢忠右衛門や、平清水駿河守師任(平清水平衛門)・上野広吉らが守り切ります。
阿曽沼勢は及川土佐・只野民部らが討死するなどし、遠野奪回は失敗に終わりました。
没落した阿曽沼広長は世田米城にて生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶しました。
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鱒沢忠右衛門は元の知行500石に加算して合計で2200石になったようですが、どうやら、南部利直の妹と離縁したことで恨まれたようです。
妻じたいは、鍋倉城を手に入れてから南部家から嫁いできたともされます。
しかし、その妻を粗末に扱ったとして、妻が南部家に返ってしまったとも言い、身の危険を感じ出奔したようです。
のち、江戸城下で潜伏しているところを発見されて、切腹したとも言います。
阿曽沼氏没落のあと、新横田城主には、平清水平衛門(平清水平左衛門久三郎)と上野丹波が就任したようです。
しかし、大坂の陣の際に江戸詰めをしていた平清水師任も1615年に切腹を言い渡されます。
なんでも、娘の夫である南部家の北十左衛門が、よりによって大坂城の豊臣秀頼に味方しようとします。
このとき、江戸に寄った際に、平清水平衛門に別れの挨拶をしたのですが、お吸い物を出してもてなしたとして、藩主の怒りを買いました。
その後、上野右近がひとりで鍋倉城代を務めたようですが、その子供らは知行は召し上げとなり、小扶持の盛岡藩士として残っています。
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そのあとには、遠野奉行の毛馬内三左衛門が鍋倉城に入りましたが、治安維持ができていないと言う理由から、八戸の根城から八戸直義が入りました。
そして、遠野1万2500石は八戸・南部氏が治めることになり、新横田城は改修されて、城名が鍋倉城へと改められました。
一国一城令でも特例として対象にはならなかったようで、南部直義のあとは、南部義長、南部義倫、南部利戡、南部信有、南部信彦、南部義顔、南部怡顔、南部義堯、南部義茂、南部済賢、南部義敦、南部行義と繋がり明治を迎えています。
現在は鍋倉公園として整備されており、市民の憩いの場としても訪れる方が絶えないようです。
三の丸には天守閣風に再現された「なべくら展望台」があります。
交通アクセスですが、JR釜石線の遠野駅からタクシーで約5分です。
クルマの場合、三の丸まで入っていくことが可能です。
写真のとおり、鍋倉城(遠野城)の南側の斜面は、前日夜の雪も解けています。
しかし、北面は若干ですが、まだ雪が残っています。
ただし、道路などは大丈夫です。
三の丸に繋がる道路は、冬季、積雪・凍結で進入禁止?になっていると言う事前情報を掴んでいました。
訪問したのはもう4月に入る直前の3月末で、外気温は6℃で、日陰の芝生はうっすらと積雪があるものの、街や道路は乾燥している状態ですし、クルマはスタッドレスタイヤです。
道路も、もう通行止め解除されているかな?と期待していたのですが・・。
残念ながら、まだ「通行止」でした。
いつ解除される予定なのかなど、遠野市のサイトを拝見しても、掲載されていません。
麓付近にある有料Pにクルマを止めて、歩いて登城することは可能ですが、その時間を確保していなかったため、泣く泣く、麓からの撮影に留めました。
とても残念!
もちろん、3月末で、本当に通行できない状態だったら、それは仕方ないところなのですが?、そのようには感じない春が近い季節でした。
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東北は、冬ですと、ほんとうに移動・観光も「制限」されてしまうのがネックです。
そうなりますと、雪が全くない時期しか訪れなくなくなってしまいますので、地元経済には、少なからずマイナス面があるのではないでしょうか?
縁がなく、歓迎されなかった、鍋倉城になってしまいました。
このあと、古いほうの陸奥・横田城、そして、火渡館、遠野ふるさと村、かっぱ淵、とおの物語の館と寄らせて頂きました。
とおの物語の館
せっかくですので、ここで、城下にある「とおの物語の館」もご紹介させて頂きます。
とおの物語の館では、遠野に伝わる昔話などが紹介されています。
「遠野物語」で有名な柳田國男の展示や資料も充実しています。
下記は、柳田國男が定宿としていた旧高善旅館「柳翁宿」で、移築されており、内部を見学可能です。
さらに、東京にあった晩年の旧居「旧柳田国男隠居所」も移築・公開されています。
柳田國男の書斎のすぐ隣の部屋は寝室になっており、仕事をするのに実に機能的な設計だと感心してしまいました。
とおの物語の館の見学所要時間は30分~50分ほどで、有料駐車場もあります。
30分以内は無料で、買い物や昼食を取ったりすると割引を受けられるようです。
入場券は、遠野城下町資料館も共通となっています。
駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
・陸奥・横田城 遠野の領主である阿曽沼氏の本拠地
・大槌城 三陸海岸屈指の規模を誇る山城
・鱒沢城(鱒沢館) 鱒沢広勝の謀反
・火渡館 火渡の石碑群と火渡館の戦い
・岩谷堂城 江刺氏の本拠地
・遠野カッパ淵 かっぱ伝説がある常堅寺と遠野・伝承園 攻略手順
・遠野ふるさと村 懐かしい風景が再現されている時代劇ロケの聖地
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