岩手県

大槌城 三陸海岸屈指の規模を誇る山城と大槌孫八郎

大槌城

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陸奥・大槌城(おおつち-じょう)は、岩手県上閉伊郡大槌町の住所にある山城で標高は141m、比高140mとなかなか堅固です。
別名は浜崎城と言いますが、城の規模も三陸付近では最大級の大きさとなっており、領地は3000石ともされます。

最初の築城は鎌倉時代に阿曽沼親綱の次男・阿曽沼次郎が築いて、大槌次郎と称したと考えられています。
もうひとつ説がありまして、南北朝時代の1334年から1338年頃の説の場合、遠野の横田城主・阿曽沼朝綱(遠野朝綱)の次男である阿曽沼次郎が築いて、大槌次郎と称したともあります。
阿曽沼氏は南朝に味方しましたが、大槌氏は北朝方に組した模様です。


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1437年、永享の乱になると、大槌孫三郎は、気仙沼の岳波太郎と唐鍬崎四郎の兄弟に呼応して、陸奥・横田城の阿曽沼氏を攻めます。
この時、三戸城の南部守行が阿曽沼氏に援軍を出したため、大槌孫三郎らは大敗し、大槌城も包囲されました。
しかし、天然の要害を生かして攻撃をかわし、更には南部守行が戦場視察しているところを矢を放って重傷を負わせたと言います。
そして、大槌孫三郎が降参した形で南部勢が撤退して和睦となり、そのあとに、南部守行は死去した模様です。(享年79)

戦国時代の末期には、本家筋である鍋倉城主・阿曽沼広郷が、遠野十二郷を支配する大勢力になっていたため、大槌氏は臣従していました。
1590年、豊臣秀吉小田原攻めに参陣しなかったため、阿曽沼氏や大槌氏は南部家の配下となります。

大槌城

そのため、1591年、九戸政実の乱では、九戸政実に味方すると思いきや、そこまでの思慮は講じなかったようで、大槌広信(大槌孫八郎広信)は阿曽沼広長とともに南部信直の南部勢として参じてします。

しかし、時代は戦国末期、これで安泰とは行きませんでした。

阿曽沼の一族である鱒沢館(鱒沢城)主・鱒沢広勝の妻は南部利直の妹であることからか、南部氏の後ろ盾を得て反旗を翻します。
最上攻めに出陣して不在だった隙を突いて遠野を占領しました。
帰る地を失った阿曽沼広長は、大船渡方向にある妻の実家の世田米城に入りました。
妻子らは遠野城を脱出しますが、途中、江刺郡境の五輪峠で殺害されたとされます。


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阿曽沼広長は、葛西氏の残党などの支援を得て、反撃に出ましたが、このとき、大槌孫八郎も阿曽沼氏に忠義を貫きました。
阿曽沼勢は、先鋒の浜田喜六が討死、鱒沢勢も鱒沢広勝が戦死する激戦で緒戦は引き分けました。
その後、阿曽沼勢は篠木丹後・横田大学・及川土佐・只野民部らが遠野城を攻めましたが、鱒沢広勝の子・鱒沢忠右衛門や、南部家の平清水駿河が守り切ります。
阿曽沼勢は及川土佐・只野民部らが討死するなど戦力が低下し、遠野奪回は失敗に終わりました。
大槌孫八郎は大槌城に退却すると南部勢に包囲されます。
そして、南部利直に降伏すると伊達政宗を頼って落ち伸びています。
のち、大槌政貞なる武将が、1616年、南部利直の謀略で、謀叛の嫌疑で自刃に追い込まれており、大槌氏は改易(所領没収)となっています。
阿曽沼広長は世田米城で没落して生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶しました。
阿曽沼氏没落のあと、遠野は八戸・南部氏が治めています。

大槌城は江戸時代の1659年に南部藩によって取り壊され、麓に陣屋(代官所)が今の大槌町役場の場所に置かれました。

大槌代官所跡

名産品である「南部鼻曲がり鮭」は、大槌孫八郎が奨励し江戸で喜ばれたと言う事です。
これで大きな利益を出していたため、南部藩に警戒されたとも、利権を奪われることになったとも・・。

大槌城への交通アクセス・行き方ですが、麓に新しくできた大槌町役場脇に大槌代官所跡の石碑があります。

大槌代官所跡

そこから城山に登れる舗装路の行き止まりがローターリー(転回所)になっていて、本丸が近いです。
城址は綺麗に公園整備されています。

ただ、期待していた三陸自動車道にて、事前に計画していた所要時間以上費やすことになり、予定よりも到着が遅れて、だいぶ日がおちて来たため、麓から上がっていくのも断念することになりました。
道路交通法の第27条で「追い付かれた車両の義務違反」という項目があります。
法定速度未満で走行している場合に、後続車に追いつかれた場合は、できる限り道路の左側端に寄って、進路を譲らなければならないと定められています。
違反すると、違反点数1点、反則金6000円(普通車)です。
交通ルールは守りたいところです。

さて、2011年、東日本大震災の際、大槌町には最大で高さ22mの津波が押し寄せ、町長をはじめ約1300名の方が命を落としています。
とても残念に感じます。

津波は、押し寄せる前に引き潮があると良く言われますが、引き潮はなく津波が来たと言い、避難が遅れたとのことです。
一度、高台に避難した人も、なかなか津波が来ないため、引き潮があったら教えてくれと、自宅に貴重品を取りに行く人も続出して、帰らぬ人になったと言います。
三陸を訪れますと、この3.11の教訓は、後世に伝えなくては行けないと、改めて感じております。
歴史的にもわかっていることですので、今後も、また、大きな地震が発生するでしょう。
その時には、ひとりでも多くの人命が失われないことを、願うばかりです。


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大槌城には、NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったとされる蓬莱島もあります。
改めまして、犠牲になられた皆様のご冥福と、復興し以前よりも賑わう事をお祈り申し上げます。
今後も東北へのご寄付と、訪問することでの復興支援を、甚だ微力ではありますが、続けたいと存じます。
ただ、今回、時間がなくなり、買い物ができなかったことが、心残りです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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