三河・亀山城(かめやまじょう)は、愛知県新城市作手清岳にある平山城で、標高は540m、比高は20mほど。
三河・亀山城
作手にある三河の亀山城(かめやまじょう)は、別名を作手城とも言う平山城となる。
南朝に味方していた上野国甘楽郡岩井奥平郷の奥平貞俊(1348年-1433年)が、天授年間(1375年~1380年)に外戚である作手領主・山崎高元(山崎左衞門高元)頼って、三河にやって来たようで、鴨谷村甘楽寺に居住する。
家臣としては桜井刑部太夫が移住に従っている。
そして、はじめは下記の川尻城を築いたようだ。
その後、700貫文となった奥平貞俊は、応永31年(1424年)3月に亀山城を築城したとある。
また、異母弟・奥平貞直も兄を頼って作手に移住し金村に住んだ模様だ。
なお、作手領主の山崎高元は奥平貞俊に臣従しており、のち山崎家は代々奥平家の重臣となり奥平五家老の一家となった。
下記は亀山城への登城口。
奥平貞俊の長男が奥平貞久で、松平親長に属したあと今川家に従っている。
その子・奥平貞昌は、今川氏親の遠州・曳馬城攻めに参加した他、井伊谷の三岳山城を攻めでも戦功を挙げ三岳山城の城番を務めた。
その後、松平清康(徳川家康の父)に従うと三州・宇利城攻めにも加わったが、その子が奥平貞勝で、田峯城主・菅沼定継の妹が後妻となっている。
この奥平定勝(奥平貞勝)が、冒頭でご紹介した奥平定能の父と言う事になる。
関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に、奥平信昌の4男・松平忠明が17000石にて亀山城主となったが、慶長15年(1610年)に伊勢・亀山城へ移封となり、亀山城は廃城となった。
交通アクセス
三河・亀山城への行き方・アクセスになるが、国道301号線沿いの道の駅「つくで手作り村」の脇から道を入って、奥の方の大きな駐車場まで進むと登城に便利となる。
その駐車場から本丸までは約5分で、公園として遺構もきちんと整備されており、子供連れでも登ることができる。
見学所要時間は30分といったところか。
三河・亀山城の駐車場の場所は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)
奥平仙千代の墓がある場所も上記リンク先の地図にて示している。
この記事は、戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものとなります。
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