熊本県

宇土古城 宇土城 宇土為光と名和顕忠~9回に及んだ豊福城攻防戦も

宇土古城

熊本の宇土城(うとじょう)は、別名を城山とも言う平山城で、標高は40m、比高39mとなります。
その宇土城の前進となるのが、宇土城より西側にある古い城郭「宇土古城」となりますので、先に宇土古城からご紹介したいと存じます。
西岡台と称される独立丘陵にあるのが宇土古城で、伝承では菊池氏の一族が築いたとされますが、定かではありません。

一説には永承3年(1048年)に関白・藤原頼通が下向のした際に築かれたもされています。

鎌倉時代の末期には宇土庄の地頭・宇土道光の居城でした。

戦国時代になって小西行長が新しく造営したのが宇土城と呼ばれるため、それ以前に使われていた城は宇土古城として区別されています。

南北朝時代の宇土城主としては宇土高俊の名が見られ、室町時代の後半には宇土忠豊の養子に、肥後守護の菊池氏から宇土為光(うと-ためみつ)が入っています。
その宇土為光は、1484年と1499年に、菊地氏を乗っ取ろうと試みますがいずれも失敗しています。

しかし、1501年、宇土為光は守護職押領に成功して、ついに肥後の守護となっています。

この宇土為光は、甥の菊池重朝から無理難題をふっかけられて争いに巻き込まれ「家中一致」で菊池家当主にと望まれたようなので、決して野心だけで肥後守護職を狙った訳ではなさそうです。

ただし、文亀3年(1503年)に亡命していた菊池本家の22代・菊池能運が反撃に出たため、宇土為光は西岡台の宇土古城にて籠城しますが破れて殺害されました。
宇土為光は籠城戦の後、逃亡して筑後で捕まって殺害されたとも、自害したとも言われます。(高瀬の戦い)

その後、西岡台の宇土古城には菊池家の家臣・城為冬(じょう・ためふゆ)が入りました。

しかし、宇土為光との戦いで負った傷が癒えず、1504年、菊池能運が23歳の若さで急死します。

菊池氏の家督を継いだ菊池政朝は重臣らの支援が得られず、菊池家中は動揺します。
阿蘇大宮司・阿蘇惟長は、菊池家の家督と守護職をねらって大友氏の支援を受け、菊池政朝を追放して、阿蘇惟長は名を菊池武経と改めて守護職を継承しました。

そのため、宇土城の城為冬は没落し、西岡台には宇土為光の娘婿・名和顕忠が入ります。

宇土古城は上記写真としてご紹介した「千畳敷」と、その西にある「三城」(さんのじょう)に別れています。
ここからは三城の方の写真をまとめて掲載させて頂きます。

宇土古城で発見された石塔類がまとめられてました。

千畳敷の方が本丸であったと考えられているようですが、三城の方が本丸でもおかしくなく、両方とも重要視していたのかも?知れません。

下記は千畳敷の方から望む三城の丘です。

以上、宇土古城でした。
宇土古城への行き方やアクセス・駐車場などは、本文末にあるオリジナルGoogleマップの熊本の欄にてご確認いただけますと幸いです。

名和顕忠とは

名和顕忠(なわ-あきただ)は、古麓城主・名和教長の次男として1452年に生まれました。
家中に内紛により、父・名和教長(なわ-のりなが)が、1459年に近習に殺害され、兄の桃房丸が僅か8歳にして第18代当主となり、名和義興(なわ-よしおき)と名乗りました。
しかし、家中の混乱は収まってなく、その兄も、近習に取り立てた旅人・奥野太郎左衛門尉によって、長禄3年(1459年)12月13日に球磨川に浮かぶ舟中にて弑逆されます。享年16。





その時、幸松丸と称していた名和顕忠は、肥後・八代郡から家老・内河式部少輔と共に去って人吉城主・相良長続を頼りました。
その相良長続の援助もあり、名和顕忠は古麓城へ帰還し、寛正6年(1465年)に名和家の家督を継ぐのです。
そのお礼として、名和顕忠は、高田郷を相良家に割譲し、相良為続の娘を正室に迎えました。

しかし文明7年(1475年)8月に相良為続が薩摩・牛屎院に出兵した際に、名和顕忠は割譲した高田郷を攻撃したことで、相良氏は1476年から八代の古麓城(下記写真)を何度も攻撃します。

そして、ついにが、1484年3月7日、遂に名和顕忠は古麓城を捨てて逃れて、阿蘇氏を頼りました。
この阿蘇氏に宇土城主だった宇土為光がのち臣従し、宇土為光の娘を名和顕忠は迎えたようです。

そして、1499年3月、豊福城の戦いにて、敵対していた人吉の相良為続が、菊池能運に敗れたため、名和顕忠は念願の八代を奪還。
ただし、宇土為光が、1501年に菊池能運を追放して肥後守護となったため、菊池能運は相良長毎の協力を得て1503年に守護奪還の兵を挙げ、激戦の末も宇土城の宇土為光を討伐しました。

この時、隈府城主・宇土為光と親戚だった古麓城の名和顕忠は、菊池能運と相良長毎の攻撃を受けて、1503年10月27日に、古麓城下にて大敗。
永正元年(1504年)2月初旬、名和顕忠は古麓城を明け渡して、阿蘇氏の監督下となる木原城へ移りました。





しかし、高瀬の戦いの傷で、2月15日に菊池能運が急逝し、宇土城主・城為冬が本国へ帰ったため、宇土為光の娘婿という立場もあり宇土城に入って、名和系宇土氏(宇土名和氏)が成立したのです。

1510年9月に、名和顕忠は豊福城の領有を得てから、豊福城(下記写真)に関しては9回争います。

菊池武経と阿蘇惟豊との間に成立していた和睦が、1511年、菊池武経の没落によって破られ、豊福城の帰属は曖昧になります。

これを受けて名和顕忠は挙兵し、相良長毎の軍勢に対して4月24日に勝利して豊福城を領しました。
下記写真ですが、2016年熊本地震の影響で石碑は倒れていました。

1516年12月、相良長毎と3ヶ月の長期戦を経て、名和顕忠は豊福城を諦めています。

そして、1517年6月、相良氏と軍事同盟を結びますが、その後、名和顕忠の名は出て来なくなります。

名和顕忠の次男と考えられる、名和武顕(なわ-たけあき)の名が、1517年の相良氏と軍事同盟の連署に見られ、家督継いだものと推定されます。

1527年に名和武顕は、豊福城を奪取して家老・皆吉武真を城代としています。
※豊福城の場所は本文末にあるオリジナルGoogleマップの熊本よりご確認頂けます。

その後、天文4年(1535年)3月に再び相良氏の攻撃を受けると再び豊福城を失い、5月には阿蘇氏を含む三家同盟を結びました。
ただ、この同盟は名和氏にとって不利なもので、名和武顕は自身の娘を阿蘇惟前と相良晴広へ嫁がせ、また子・名和行興を人質として人吉城に派遣しています。

天文9年(1539年)、大友義鑑と菊池義武の間の和睦が破綻し、阿蘇氏でも阿蘇惟前と阿蘇惟豊が対立すると、名和武顕は名将・甲斐宗運が仕える阿蘇惟豊に接近しています。

1542年6月、三家同盟はついに破綻して、名和武顕は豊福城を攻撃しました。
そして、1544年の春、相良氏が撤退して豊福城を奪還し、1545年4月には阿蘇惟豊・相良長唯との間に「三家和睦」が成立しました。

天文15年(1546年)6月12日に名和武顕は死去。
葬儀は菩提寺の宗福寺で行われました。
このときすでに長男・名和重行は亡くなっており、次男・名和行興が跡を継いでいます。

名和行興は頑張って阿蘇氏に奪われていた郡浦支配を1550年に達成。
その後、名和行憲が1564年4月に死去すると、一族の名和行直が本家の家督を掌握し、その子・名和顕孝(なわ-あきたか)の時に、豊臣秀吉の九州攻めとなりました。





肥後国人一揆でも、名和顕孝は加担しませんでしたが、豊臣秀吉に身の潔白を訴える為、自ら大坂城まで出向いています。
その間、宇土古城を守っていた弟・名和顕輝は、1588年4月に宇土城にきた豊臣勢に対して、城明け渡しを拒否したため、合戦となって敗れ、捕縛されると殺害されました。
そのため、宇土城を失いますが、処罰対象とはならず、名和顕孝は筑前に代わりの領地を与えられ、小早川隆景の配下に組み込まれています。
のち、名和氏は柳川藩主・立花宗茂に召し抱えられ、柳川藩士として存続しています。

なお、肥後国人一揆のあと、小西行長が、肥後の宇土郡・益城郡・八代郡あわせて17万5000石となり、宇土古城を本拠としました。
宇土古城は現在、国指定史跡となっています。

その後、宇土古城の東にある高さ約13mの城山(宇土市古城町)に新城と定めますが、普請に際しては天草の国人衆が助力を拒否して天草国人一揆が発生しています。
天草国人一揆は無事に平定したため、天正17年(1589年)頃から宇土新城(鶴ノ城)の築城が開始されました。

本丸には3重の天守があったとされています。

現在は本丸部分が公園として整備されており、小西行長の像が建っています。

1600年7月、小西行長は西軍・石田三成に協力しますが、この時、宇土城にはおらず、隈本城にて謹慎していた加藤清正が、徳川家康の承諾を得て、豊前で挙兵した黒田官兵衛を応援するため、豊後へ出陣しています。
しかし、その後、肥後に戻ると宇土城を攻撃しました。

9月19日に石ノ瀬口の戦いとなり、翌20日には宇土城下での戦闘を経て、加藤清正が宇土に到着すると、21日には5方向からの総攻めが行われました。

10月2日には三ノ丸まで陥落し、残すは本丸・二ノ丸となりますが、10月20日に関ヶ原の戦いで小西行長敗走の知らせが届くと、城代・小西隼人は10月23日に開城して自刃しています。

その後、加藤清正は、宇土城を自身の隠居城として主曲輪などを改修しています。

1611年に加藤清正が死去すると、翌1612年、水俣城・矢部城とともに宇土城は破却されました。

当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)
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攻略難易度
中級者向け
旧国名
肥後
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城跡はよく残っています。




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