和歌山県

龍松山城 最後の当主・山本康長は3ヶ月籠城するも・・

龍松山城

紀伊・龍松山城(りゅうしょうざん-じょう)は、和歌山県西牟婁郡上富田町市之瀬にある標高121mほどの山城で比高は80mです。
別名は市ノ瀬城、辰巻城と言います。
最初の築城年代は不明ですが、紀伊国櫟原荘である市ノ瀬(一之瀬)の紀伊・坂本付城(坂本下屋敷)に入った山本氏の詰め城が龍松山城と考えられます。
山本氏は清和源氏義光の孫である山本義定の末裔を称するともされますので、駿河出身でのち武田信玄の軍師になったとされる山本勘助も一族かも知れません。
また、熊野別当支流の末裔ともされますので、血が混ざっている可能性があります。





戦国時代の天文年間(1532年~1555年)に、山本忠行が市ノ瀬城を築いたともされます。
昔から砦として使用していた城を改修したと考えてよいでしょう。
そして、2代目の山本忠継が更に修築したとき、二ノ丸の入口付近にあった巨大な老松が、龍が寝たような姿に似ていたことから「龍松山城」と呼ばれるようなったと伝承があります。
この2代目が、ややっこしいのですが、山本忠継は山本氏の2代目と言う事ではなく、龍松山城主としての2代目と言う意味らしいです。

龍松山城

ただし、最初の城主とされる山本忠行ですが、小生が確認した限りでは、南北朝時代の武将です。
1333年に、護良親王と共に山本忠行(山本判官忠行)が上洛して鎌倉幕府討幕を目指しました。
それらの功績によって、櫟原(いちいはら)荘園の領主として地頭となっています。
そして、湯川氏らと同じく室町幕府奉公衆となると四番衆に名が見受けられます。
当時の山本氏の勢力は、3万石ほどまで伸びており、新宮城の堀内氏が台頭するまでは、紀南での最大勢力となっていました。

下記写真は二の丸から本丸を望むものとなります。

龍松山城

そんな山本氏が栄えた本拠地としては、櫟原荘の中心地である市ノ瀬(一之瀬)の紀伊・坂本付城(坂本下屋敷)でした。

応仁の乱のきっかけとなった畠山義就と畠山政長の家督争いで、山本氏は畠山義就に味方しています。
そのため、畠山政長に加担した目良氏、神保氏、小山氏などから拠点の市ノ瀬を攻撃されています。

龍松山城

そして、戦国時代に龍松山城が大改修されて、山本氏が本城として使った頃には、湯川氏の麾下に入っており湯川衆として動いていました。
木沢長政の乱、久米田の戦い、教興寺の戦いなどにも山本氏は参加しています。

龍松山城

23代・山本忠朝の子である山本康忠(やまもと-やすただ)は、1560年頃の生まれとされます。
父・山本忠朝が1566年に死去すると、山本康忠はまだ子供だったため、叔父・山本弘元との間で家督争いとなりました。
叔父・山本弘元は小山氏、安宅氏らを味方にしましたが、山本家の重臣の田上朝康(田上右京進)と、田上一族らの活躍にて勝利し、山本康忠(山本主膳)が家督を継いでいます。
そして、1585年、豊臣秀吉の紀州征伐を受け、紀伊・亀山城主の湯川直春が龍松山城に逃れて来ると3ヶ月間の籠城したともあります。
この時、豊臣勢は、紀伊塗屋城を整備して本陣にしていたとされます。
そして、杉若無心(杉若越後守)・藤堂高虎ら3000が龍松山城に押し寄せましたが、山本氏は夜襲するなどして僅か300で防いだ結果、豊臣勢と和睦し所領を安堵されました。

下記は龍松山城からの展望ですが、冬で葉っぱが無い時期でこれですので、現在、夏はほとんど展望は見えないでしょう。

龍松山城からの展望

1586年、新たな紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶にと、湯川直春ら湯川衆13名は大和・郡山城主に赴きました。
この13人に山本康長(山本主膳)の名も見られます。
しかし、その帰り道13名は、真土峠(まつちとうげ)付近にあった藤堂高虎の館にて毒殺されたと言われており、紀伊・山本氏は24代で終わりを迎えました。
藤堂屋敷では、風呂を勧められて、着物を脱いで風呂に入ったとたん、刺客の槍で突かれたともされます。
織田信長や豊臣秀吉では、このような暗殺が多々あります。
ほんと、ひどい話ですね。





本丸は大きな曲輪になっていて、周囲は土塁で囲まれているそうでして、とちも興味深い山城です。
また、本丸の東側には山本氏一族の供養塔・剣の碑と、山本氏の軍師である桂紀之助の墓があります。

龍松山城

国道311号線沿いに大きな道標が出ています。
そして、龍松山城の二の丸まで舗装されている道があり、車で上がっていけて、駐車場スペースがあります。
道は対向車が来たらアウトの可能性がある狭い道路です。
本丸跡には、約200本のサクラがあるそうで、桜の名所にもなっているようです。
途中、ミカン畑もありませんので、桜のシーズンでもなければ、対向車が来ることも無いかとは存じますが・・。

龍松山城

途中、1箇所だけ急カーブは切り返しが必要ですが、普通車でも登れる舗装道路になっています。
二の丸からの見学所要時間は約20分といったところです。
当方のオリジナル関西地図でも、二の丸の場所を示しています。
ただし、Googleマップのカーナビ機能は、道が細いためか機能しませんでした。
まぁ、道なりに進んで行けば、たどり着けます。

かつては石垣もあったようですが、明治に入ってから1889年の大洪水で決壊した富田川堤防の復旧に使用されたとされます。





今回、紀州征伐ならぬ、紀州制覇におきましては、今まで知らなかった紀伊の国人の苦悩などが、よくわかりました。
NHK大河ドラマでも、紀伊攻めは、ちょっとで簡単に終わってしまいますので、1度、1年間通じて、じっくりと時代劇を放送しても良いのではと存じます。
和歌山県はその歴史もさることながら、風光明媚な観光地も多いですので、紀州の戦国武将らに焦点を当てた時代劇ドラマ、ぜひ見たいです。

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攻略難易度
中級者向け
旧国名
紀伊
著者コメント
クルマで本丸下まで登って行けます。




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