常陸・戸村城は茨城県那珂市戸にあります。
茨城のこの辺りは、常陸・太田城も、水戸城も同じですが、丘のはじっこを使用した城跡(館跡)と言う感じで、平山城とも平城とも言えます。
那珂川の東岸にあり、対岸には那珂西城があります。
戸村城の最初の築城は、平安時代末期の1160年とされ、戸村能通が築きました。
この戸村能通は下野押領史・藤原秀郷流の那珂氏(川野辺氏)の川野辺城(野口城)3代・那珂通兼の次男?とされ、大井郷の戸村に館を築いて戸村小三郎と称したと言う事になります。
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戸村氏2代目の戸村小三郎通基は、承久の乱(1221年)にて北条泰時に従うと、宇治川の戦いで、3人を討ち取るなどし高名をたてました。
また、佐竹家の系図によると、佐竹氏4代・佐竹秀義の母は戸村小三郎能通の娘とあります。
南北朝時代では那珂通辰とともに戸村又五郎が南朝に味方しています。
1361年、北朝についた佐竹貞義の金砂城を攻めていますが、敗走すると退路を断たれ那珂氏一族とともに自刃し、戸村氏は滅亡しました。
その後、佐竹義人の3男・佐竹義倭(さたけ-よしやす)が、大掾満幹の養子になって大掾憲国と改名したあと、佐竹家に復した際、1460年、常陸・戸村城を修築して居城にし、戸村氏を称しました。
戦国時代には、佐竹氏の重臣として戸村義和が活躍しており、その子・戸村義国(とむら-よしくに)が1591年に生まれています。
一説には土蔵の中で生まれたとありますが、合戦中だったのかも知れません。
母は江戸重通の娘・知哀院ですが、父・戸村義和は朝鮮攻めにて病死し、幼くしてあとを継いだ戸村義国は、1602年に佐竹義宣が久保田城に組替えになった際にも従いました。
戸村義国は、久保田藩にて執政を務め、新田開発にも尽力しました。
大坂の陣では、矢野正倫を討ち取り、徳川秀忠から感状と刀「青江次直」を拝領しています。
1631年、戸村義国は角館城の代官となり、1669年、シャクシャインの乱の鎮圧に松前藩から応援要請を受けると、戸村義国は佐竹勢の総指揮を執る予定でしたが、派遣前に乱が平定されています。
1671年、戸村義国は死去。享年80。
跡を継いだ戸村義連は、1672年から横手城を預かり、以後、戸村家が横手城代を歴任しています。
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常陸・戸村城ですが、峯村接骨院の先に土塁があり、案内板もあるようですが、基本的には農地になっています。
私有地と言うのと、朝早い訪問でお騒がせになると存じ、西側にある道路からの撮影に留めました。
・角館城 6歳で家督を継いだ戸沢道盛の復活劇
・常陸・石塚城 なかなか規模も大きい石塚氏の城
・小場城 戦国期に佐竹氏を支えた小場義成の居城
・常陸・太田城(舞鶴城) 戦国大名に発展した佐竹氏の本拠地
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