秋田県

出羽・八森城(矢島城) 矢島満安(矢島五郎満安)の勇気ある自刃

出羽・八森城(矢島城)

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出羽・八森城(はちもり-じょう)は、出羽・矢島城(やじま-じょう)と両方の名前で知られる、秋田県由利本荘市矢島町の単郭式平城になります。
別名としては、八森館、矢島陣屋、八森陣屋、矢島陣屋とも言いますが、八森と矢島と両方の名がよく使われます。

最初の築城は不明ですが、矢島城より南にある根城館主・大井義久(大井大膳大夫義久)が、応仁年間(1467年~1469年)に支城として築いたとされます。
この大井氏木曽義仲の末柄で、信濃国佐久郡大井郷から出羽国由利郡に入部したともされます。
仁賀保氏を称した大井氏と同族で、甲斐源氏・小笠原氏流の大井朝光の後裔とも諸説あり、よくわかりません。


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戦国時代には矢島氏と称しております。
矢島満安(矢島五郎満安)は、小野寺氏の一族である西馬音内城小野寺茂道(西馬音内茂道)の娘を正室にしたようです。
そのため、矢島城主・矢島満安は、由利十二頭の山根城主・仁賀保挙誠(仁賀保兵庫頭挙誠)と、1560年頃から十数回も抗争を重ね、本拠を根城館から新荘館に移しています。
矢島満安は、仁賀保明重、仁賀保安重、滝沢政家など当主クラスを何名も討ち取るなど武勇に優れた武将で、湊合戦では、秋田実季に加担した矢島満安の活躍にて出羽・湊城を落とせたとあります。
抗争中でもときには、矢島氏と仁賀保氏はともに結束して行動しましたが、由利十二頭のほとんどが最上義光に属したのに対し、矢島満安は小野寺氏に味方しました。
そのため、由利衆らの攻撃を受けて敗れて所領を失い、西馬音内城に逃れたようです。。
その後、矢島城には、仁賀保氏の家臣・菊地長右衛門が入りました。

出羽・矢島城

また、1592年、小野寺氏総領の小野寺義道から、世話になっていた西馬音内城主・小野寺茂道が疑われることになり軍勢が迫ったため、矢島満安は西馬音内城にて自刃し、合戦を止めています。

その後、1600年、関ヶ原合戦にて、山形城主・最上義光が由利郡を賜ると、1603年に重臣・楯岡満茂の所領(45000石)となりました。
楯岡満茂は本拠を赤尾津城から本荘城に移転させましたが、弟・楯岡満広(楯岡長門守満広)が、3000石にて八森城主になっています。

出羽・矢島城

しかし、江戸時代の1622年、最上家が改易されると、楯岡満茂・楯岡満広の兄弟も連座して、上野・厩橋城の酒井忠世に預けられました

その後、由利十二頭のひとりであった常陸・新宮の打越氏が矢島領3000石を受けていますが、1635年、打越光隆の嗣子・打越光久が死去すると、後継ぎがいないく廃絶となりました。
のち、生駒騒動にて改易となった讃岐・高松城の生駒高俊が、堪忍料1万石にて矢島藩主となり、八森陣屋を築きました。

出羽・八森陣屋

こうして、幕末まで、代々生駒氏が納めています。

しかし、戊辰戦争の際に、矢島藩は新政府側に味方したため、奥羽越列藩同盟の庄内藩から攻撃を受けました。
このとき、矢島藩主・生駒親敬らは、陣屋を焼いて、久保田城に逃れています。


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現在の矢島陣屋跡は小学校などになっていますが、石垣や土塁や水堀などが残っています。

交通アクセスですが、由利高原鉄道の終点「矢島駅」から徒歩10分となります。
なお、駐車場は矢島支所の前にある町営駐車場が利用可能です。

小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
楯岡満茂とは
出羽・久保田城 御隅櫓と表門が復元
出羽・湊城 戦国時代には湊安東氏の居城
出羽・豊島城(豊島館) 畠山重村(豊島重村・豊島休心)と湊合戦
西馬音内城 小野寺茂道(西馬音内茂道)の苦難
赤尾津城(天鷺城) 赤尾津二郎の本拠地
本荘城 楯岡満茂が整備した由利の一大拠点


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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