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武蔵・菅谷城(菅谷館)【続日本100名城】土塁や掘がよく残っている歴史ある館跡

武蔵・菅谷城(菅谷館)

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武蔵・菅谷城(菅谷館)とは

武蔵・菅谷城(すがや-じょう)は埼玉県比企郡嵐山町にある平城で、菅谷館、重忠館とも呼ばれます。
続日本100名城にも選ばれた、国の史跡です。
標高は62mですが、南側は都幾川に面しており、浸食された崖で、比高は20mほどあります。

武蔵・菅谷館は「吾妻鑑」にも出てくる、鎌倉時代初期に武蔵で最大勢力を誇った名将・畠山重忠の居館として有名です。


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畠山氏は、もともと畠山荘(畠山館)にいましたが、大蔵合戦にて秩父一族の権力を掌握した際に、鎌倉街道の要衝地である大蔵館の新城として、菅谷館を築城して移ったと考えられます。

畠山重忠

1205年、執権北条時政の策略にはまり、畠山重忠が二俣川の戦い(神奈川県横浜市旭区)で討死すると、畠山家は断絶しますが、名跡を継いだ足利義純の子孫が菅谷館に入った可能性があります。

武蔵・菅谷城(菅谷館)

しかし、以後、約300年間、菅谷館の動向は不明です。

武蔵・菅谷城

太田道灌が暗殺され、1488年、鉢形城から出陣した上杉顕定(山内上杉家)が、太田資康・三浦高救らと相模・糟谷館を狙った際に、武蔵・河越城に滞在していた上杉定正(扇谷上杉家)が追跡して、相模の実蒔原の戦いで奇襲攻撃し勝利しています。

武蔵・菅谷城

憤慨した上杉顕定は、今度は、河越城を攻撃しようとしますが、菅谷館から近い菅谷原にて須賀谷原の戦いとなり、再び上杉定正が勝利しています。

武蔵・菅谷城

この頃、岩松家の僧侶で陣にも加わっていた松陰が菅谷城の改修を進言したとあり、太田資康が入った模様です。

武蔵・菅谷館

また、北条早雲が優勢な上杉定正に味方しますが、1494年に、荒川を渡っている際に上杉定正が落馬して死去します。

菅谷館

1504年、立河原の戦いでも、跡を継いだ扇谷・上杉朝良が、今川氏親・伊勢宗瑞の援軍を得て大勝利しましたが、本拠としていた河越城が包囲されると山内・上杉顕定に降伏しました。

武蔵・菅谷城

このとき、一時的に、上杉朝良は菅谷城に幽閉されたようですが、最終的には隠居して江戸城に入っています。

武蔵・菅谷城

こうして、「長享の乱」は山内上杉家が逆転勝利し、菅谷館は山内上杉家の拠点として使用されました。

武蔵・菅谷城

1546年、河越城の戦い(河越夜戦)にて、北条氏康が勝利すると、以後は北条家の所領となり、城を改修したようです。
1509年には、連歌師の宗長が武蔵・勝沼城などを訪れて、この菅谷城も訪問しており、その時の城主は小泉掃部助とあります。
現在の残る遺構は、北条氏が工事した匂いがプンプンします。

菅谷館跡

なお、近くの武蔵・杉山城や、武蔵・松山城は、武田信玄に攻められたり、豊臣秀吉小田原攻めの際に、北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸)が攻めていますが、菅谷城が戦火を浴びたと言う記録はありません。

交通アクセス

現在の菅谷館は、史跡公園として整備されており、歩きやすいです。
土塁や空堀などの遺構もよく残っているほうだと存じます。


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見学所要時間は資料館も含めて、60分~90分といったところです。
私はスタンプやってませんが、続日本100名城のスタンプは、埼玉県立嵐山史跡の博物館の展示室受付に設置されています。
博物館の入館料は100円と安いですが、JAF会員証を見せると、激安の60円に割引となりました。
無料の駐車場も北側に完備されていますが、右折では入れません。
当方のオリジナル関東地図もご活用頂けますと幸いです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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