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武蔵・勝沼城 三田氏の本拠地

武蔵・勝沼城

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武蔵・勝沼城

勝沼城(かつぬま-じょう)は、東京都青梅市にある平山城(丘城)で、別名を師岡城と呼びます。
標高は237m、比高は30mですので、比較的登城しやすいようです。

鎌倉時代に、平将門の末裔ともされる名門・三田氏が「杣の保」(そまのほ)と呼ばれた青梅を支配していることから、三田氏の詰城として築城されたと考えられます。
室町時代の三田氏は、周辺の勢力と共に関東管領・山内上杉氏に従い重臣となっています。


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1509年には、連歌師の宗長が勝沼城を訪問した記録があり、そのときの城主は三田氏宗(三田弾正忠氏宗)で嫡男は三田政定とあります。

北条氏康河越夜戦で山内上杉氏に勝利すると、この辺りの勢力は北条家に臣従しており、三田政定も同様に北条家に従いました。
しかし、1561年に、上杉謙信が関東に侵攻し、小田原城を目指した際には、関東の豪族の多くと共に、三田綱秀も上杉勢に加わり小田原城を包囲しています。
そして、上杉謙信が春日山城に返ると、関東の諸将は再び北条家に復帰していますが、岩槻城太田資正と三田綱秀は引き続き、北条家に抵抗を続けました。
恐らくは滝山の大石氏などが事実上北条家に乗っ取られたため、警戒したものと推測致します。
この頃、武蔵・勝沼城は低いため、より防御に優れている武蔵・辛垣城を改修して対抗しましたが、滝山城主・北条氏照が1563年までに落としています。
なお、三田綱秀は岩槻城主・太田資正の元に落ち延びましたが、岩槻で自刃したとされる。享年は73と言われています。

その後、青梅は北条氏照の所領となり、三田氏の旧臣で三田一族ともされる師岡将影(師岡山城守将影)が、勝沼城主になり「師岡城」と改称したとされます。
1569年、武田信玄が滝山城を攻めた際には、滝山城の二の丸にて、師岡将景が武田勝頼と一騎打ちをしましたが、勝負がつかなかったとあります。

武蔵・勝沼城

1574年に、師岡将景の姉・妙光尼が妙光院を開基したほか、光明寺の一角には師岡神社があります。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸)が城を接取したもようで、以後は使われなくなりました。

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妙光院の背後にある墓地からが、現在の登城路となりますが「関係者以外立入禁止」とありましたので、登城は自粛させて頂きました。
なお、光明寺のお墓参りに行くように階段を直登していく方法でも登れるようです。

駐車場は、光明寺や妙光院の参拝者用無料駐車場を利用できそうです。

近くに、塩船観音もありますので、セットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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