岡山県

美作・岩屋城 長期の籠城戦を度々しのいだ堅城

美作・岩屋城

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美作・岩屋城(いわやじょう)は、岡山県津山市中北上にある標高483mの梯郭式山城で、比高はなんと310mもあります。
福岡の有名な岩屋城や、淡路島の岩屋城と区別するため、ここでは美作・岩屋城として表現させて頂きます。

最初の築城は、1441年、山名教清が美作守護となった際に築いたとされます。
同じ頃、叔父の山名忠政は、鶴山城(津山城)を築きました。

山名教清(やまな-のりきよ)は、同族の山名宗全・山名教之と共に、室町幕府将軍・足利義教を殺害した赤松満祐を討伐した恩賞として、赤松満祐の領地だった美作と、更に石見の守護となりました。
しかし、その後の消息は不明なため、まもなく死去したようで、子の山名政清が美作守護職を継いでいます。


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その後、1467年から応仁の乱とにると、美作守護の山名政清は、山名宗全に従って兵を率いて上洛しました。
美作・岩屋城は山名忠政が残っていましたが、大内義弘に呼ばれて同じく上洛したため、その留守を突いて、赤松政則が挙兵して旧領を奪還し、美作には家臣の中村五郎左衛門が送られ、美作・岩屋城に入りました。
こうして、赤松政則は、旧領の播磨・美作・備前を1468年までに一気に奪回し、守護職も変わりました。

美作・岩尾城には、赤松家臣の小瀬氏、中村氏、大河原氏、後藤氏などが相次いで入ります。
ところが、1520年、美作守護代の中村則久(中村五郎左衛門討)が、赤松義村に対して謀反を起こした三石城主・浦上村宗に味方して裏切り、美作・岩屋城を奪取して籠城しました。

赤松義村は、御着城主・小寺則職を大将にして討伐軍を派遣しますが、浦上家の重臣・宇喜多能家(備前・砥石城主)の援助を受けて要害の美作・岩屋城は容易に落ちず約200日経過します。
籠城していた中村則久は、浦上村宗と連携して攻勢に出ると、小寺則職らを返り討ちにし、小寺祐職の父子が討死するなど、赤松勢は大敗しました。
1521年には、浦上村宗がかつての主君・赤松義村を殺害しました。
しかし、1531年、大物崩れで浦上村宗が討死すると形勢が変わり、尼子晴久の後ろ盾を得た大河原貞尚に押されます。
そのため、1544年、中村則久の子・中村則治(なかむら-のりはる)は、尼子国久の攻撃を受けて斎藤実秀とともに降伏しました。

所領は安堵されたようですが、尼子晴久の家臣・芦田秀家が美作・岩屋城代として送り込まれ、実質的に経営権は失ったようです。
1548年、美作・高田城主の三浦貞勝が尼子氏の宇山久信に攻められた際にはこの城に逃れたともありますが、本当でしょうか?
1568年、尼子義久が滅亡すると、中村則治は独立を目論む芦田秀家に謀殺されました。

こうして、芦田秀家、子の芦田正家と代替わりしましたが、美作・岩屋城は、今度は南から攻撃を受けることになります。

美作・岩屋城

天正2年(1574年)、浦上宗景から独立したい沼城主・宇喜多直家は、美作・岩屋城に目を付けて、3月に原田貞佐と花房職秀に奇襲させました。
その結果、わずか一日で美作・岩屋城は陥落し、宇喜多の家臣・浜口家職が入っています。
芦田正家は、討たれたとも言われていますが、宇喜多直家は、美作南部の沼本・菅納・原田などの諸氏を先に寝返らせ、美作・岩屋城の芦田正家を追放して家臣の浜口家職に制圧させたともされています。

1575年からは、美作三浦氏と、宇喜多家の岩屋衆との抗争が激化します。
三浦貞広の家臣である牧清冬は牧左馬助らと、宇喜多家の花房職秀・沼本房家らが守備する多田山の陣を奇襲して占拠しました。
しかし、宇喜多直家は毛利家と同盟し、備中兵乱を鎮圧した毛利勢が三浦領に侵攻し、宇喜多直家が浦上宗景の備前・天神山城が落とすと、三浦貞広も毛利家に降伏しました。

美作・岩尾城は引き続き浜口家職が城主を務めていましたが、1580年、宇喜多直家が織田家に寝返ると、毛利家の標的となります。

中村頼宗による奪取

1581年、毛利勢の葛下城主・中村頼宗(なかむら-よりむね)が、岩屋城の奪取を狙って、西浦城主の大原主計助と32名の少数精鋭部隊を組織して急襲させます。
美作守護代だった中村氏との関連は不明ですが、葛下城はもと中村氏の領地と言っても良いことから、一族であった可能性は高いと推測致します。

暴風雨の夜に城へと接近すると、北側の急峻な崖である「落し雪隠」をよじ登って本丸へとなだれ込みます。
そして、中村勢は浜口家職を追いやり、美作・岩屋城を奪取しました。
この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主としています。

美作・岩屋城

宇喜多直家は、戦略的に重要な地であったため、何度も反撃しましたが、中村頼宗は伊賀家久や楢崎元兼らと連携して城を守り抜きました。

備中高松城の戦いを経て、1583年、毛利輝元と羽柴秀吉が講和すると、美作・岩屋城は宇喜多領となります。
しかし、中村頼宗は最後まで立ち退きに応じなかったため、宇喜多秀家は1584年3月に、花房職之ら2万の大軍にて、岩屋城を攻撃させました。
花房職秀は、多数の付城を設け、岡家利・長船貞親・戸川秀安・江原親次らが完全包囲しますが、このときも、中村頼宗は4ヶ月も籠城を頑張ります。
しかし、八島宗八を使者として鞆幕府足利義昭の元に送るとに、和睦の仲介を得て、ついに岩屋城を明け渡していました。
その後、中村頼宗は毛利家を頼って安芸へと逃れたようですが、以後の消息は不明です。

なお、美作・岩屋城には長船貞親が入りましたが1590年に山火事で全焼したようで、その後、再建されることなく約150年にわたる歴史に幕を下ろしました。

美作・岩屋城

美作・岩屋城はも中国自動車道、国道181号(旧出雲街道)・JR姫新線を南に見下ろします。
12本の堅堀や20以上の郭がある大規模な山城ということで、散策路もよく整備されている模様です。
本丸近くには湧水からなる竜神池があり、籠城にも適していました。

慈悲門寺跡、水門跡、龍神池、馬場跡、本丸跡、二の丸跡、本丸東砦跡などがあり、特に「てのくぼり」と呼ばれる12本の畝状竪堀はスゴイようです。

駐車場から主郭(本丸)までは比高250mほどで、徒歩約40分となります。
見学には2時間以上必要と言うことで、今回は岡山空港からの帰りの時間の関係で無理でしたが、是非、再訪したいところです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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