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備中・高松城【続日本100名城】水攻めの舞台となった備中高松城址と陣跡

備中・高松城

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備中・高松城とは

備中・高松城(たかまつじょう)は、岡山県岡山市北区高松にある梯郭式平城となります。
続日本100名城にも選ばれている国の史跡になっており、見どころも多い城跡ですし、平坦ですので見学も疲れません。

最初の築城時期は不明ですが、備中・松山城の三村氏の有力家臣である石川氏が築いた城とされます。

備中高松城主としては、石川久孝(石川左衛門佐久孝)が見受けられますが、石川家の当主は幸山城主・石川久式でした。

石川久式の妻は、三村家親の娘(三村元親の妹)で、備中松山城主の三村元親の重臣となっていました。

しかし、1575年毛利家・宇喜多家による三村氏討伐(備中兵乱)によって、備中松山城の三村元親が切腹し、幸山城主・石川久式も家臣の裏切りにあい、毛利勢の追手により討たれます。

そして、生き残ったと考えられる石川家の一族である石川久孝(石川左衛門佐久孝)が見込んで、娘婿にしていたのが、有名な清水宗治と言うことになります。
清水宗治は、清水城主・清水宗則の二男で三村家、そして石川家に仕えていました。


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備中高松城主の石川久孝が1565年に亡くなったあと、男子がいなかったため、養子の船山城主・須々木某の末子である須々木筑前が、備中・高松城の石川家を継承していたようです。
しかし、須々木筑前も程なくして他界したため、石川氏の跡目問題となりました。
家来の長谷川氏らは、また須々木氏から新たに養子を迎えようとしましたが、清水久孝の娘婿である清水宗治は、自ら跡継ぎになろうと考えます。
そして、永禄八年(1565年)、備中高松城での会議の際に、長谷川氏を誅殺して、諸将から人質をとり、清水宗治が備中・高松城主になったとする説があります。

備中・高松城

ただし、まず、年代がおかしいのです。
1565年が正しいとすると、主君とも言える備中松山城主の三村元親がまだ健在でして、一族でもある石川家で内紛があれば、見て見ぬふりはしないはずです。
清水宗治と一戦交えても良いと思いますが、その動向は無いようです。

よって、清水宗治が備中・高松城主になった経緯や時期は不明ですが、次男坊が城持ちになったのですから、能力は高い武将であったことは確かでしょう。

備中・高松城

そして、備中兵乱が始まったころの1574年に、清水宗治は主君・三村元親を見限って、毛利家に寝返り、小早川隆景に臣従しました。
なお、備中兵乱では備中石川氏も滅亡し、猿掛城には毛利元清が入っています。
また、清水宗治が備中・高松城主になるまえには、石川氏の幸山城主だったとする説もありますが、これに関しては、まったく見当がつきません。

清水宗治は、毛利家のもとで忠実に戦い、上月城の戦いでも戦功を挙げました。
そして、いよいよ織田勢が毛利領に迫ってくると、小早川隆景は清水宗治ら備中境七城の城主を、居城の三原城に呼びます。
羽柴勢に対する防衛拠点として、北から、宮路山城冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城庭瀬城、松島城が境目七城で、その主城が「備中高松城」でした。

小生は小早川隆景こそ、戦国武将でも総合的に最も優れていた武将だと考えておりますが、は織田家に内通しようと考えている者は、いまのうちに織田信長に降伏して良いと言ったようです。
しかし、清水宗治ら7人の城主は、一命を捨てでも、城を死守すると誓ったと言います。

備中高松城

いよいよ、羽柴秀吉を大将に蜂須賀正勝、黒田孝高(黒田官兵衛)、竹中半兵衛宇喜多直家らが備中に迫ると、鴨庄城・日幡城・宮地山城の諸城はあっけなく降伏します。
冠山城は激戦のすえに落城し、残すは高松城と庭瀬城となりました。

特に備中・高松城は、平城で石垣もない土塁で囲った城でしたが、周囲は低湿地帯と沼地で、攻めるのがとても困難な立地です。

備中高松城

そのため、清水宗治も織田勢の大軍を相手に籠城を続けることができ、やがて、小早川隆景ら毛利の援軍も近くに布陣しました。

しかし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、世にも名高い「水攻め」によって備中高松城を包囲する作戦(備中高松城の水攻め)を取ります。
こうして、11日間で待望が完成すると、折しも梅雨の時期で高松城は水面に浮かぶ孤城となりました。
比高は4mですので、本丸部分のみが陸として残ったものと推測されます。
負けることがわかっていても、清水宗治は降伏せずに、毛利家への忠節を貫きます。

そんなとき、1682年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死します。
この知らせを受けた、羽柴秀吉は、毛利家の外交僧・安国寺恵慶と交渉し、清水宗治の切腹をもって毛利家と和睦すると決定します。
当初、毛利家としては、清水宗治の切腹には応じられないと拒否したと言います。
しかし、清水宗治は、6月4日夕方、城兵の命と引き換えに、城から船にて湖上に出て自刃しました。享年46。

自刃した場所にあると言う清鏡寺には、宗治自刃の碑があります。

清水宗治自刃の地

備中高松城の城内には、清水宗治の首塚がありますが、黒田官兵衛陣の近くに豊臣秀吉が建てたものを、のちに移設したものです。

清水宗治の首塚

そして、城域から少し北に行った民家の庭先には、清水宗治の胴塚があります。

清水宗治の胴塚

首は羽柴秀吉の元へ届けられましたが、胴体は家臣の手により池下丸にて手厚く葬られました。

備中高松城の戦いでは、兄である月清入道、難波伝兵衛、毛利家の軍監・末近信賀(末近四郎三郎信賀)らも自刃しています。
他の家来も船の上で互いに刺し違えて落命するという壮絶な最期だったようです。
その場所は「ごうやぶ遺跡」として今でも残されています。

ごうやぶ遺跡

こうして、備中・高松城は開城され、清水宗治の妻(石川久孝の娘)や子らは備中・川辺にと落ち延びたとあります。

毛利家と和睦した羽柴勢は「中国お大返し」と言われる日本史上屈指の強行軍にて引き返し、山崎の戦いにて明智光秀から勝利するのです。

なお、備中・高松城には、織田家の杉原家次が入っています。

備中・高松城の本丸

その後、宇喜多直家に与えられ、花房正成が入りました。
1600年、関ヶ原の戦いのあとには花房職秀(花房職之)が城主になっており、城域も整備されましたが、のち一国一城令で廃城になった模様です。

備中高松城の周りには、羽柴勢・毛利勢の陣跡が点在していますので、少しご紹介致します。

報恩寺山陣

備中高松城の戦いの際に、加藤清正が陣を築いた場所で、標高31mの丘になっています。
もともとは、吉備津神社社務代を務めていた生石氏の居城があったとも言われます。

報恩寺山陣

現在は、生石神社が建っており、神社入口に駐車スペースがありました。
もともと報恩寺があった山ということなのですが、報恩寺は山麓に移っている模様です。

岩崎山陣

岩崎山陣は吉川元春(宍戸備前ともされる)が、陣を築いた場所です。

岩崎山陣

標高74m(比高50m)の庚申山がそうで、古くから積善寺という大きな寺があったと言います

御崎山陣

御崎山陣は、堀田茂助が陣を築いた場所と伝わります。

御崎山陣

現在は、御崎宮がある場所で、高松城水攻め築堤跡からもほど近いところです。

岡之鼻陣

岡之鼻陣は城より北側にある大村池の脇にある標高28mの丘になります。

岡之鼻陣

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の弟・羽柴秀勝が陣を置いたと言い、山頂に社が奉られています。

八幡山陣

八幡山陣は標高42mの丘で、織田家に組みした宇喜多秀家が、10000の兵をもって4月27日に陣を築いた場所となります。

八幡山陣

龍泉寺の太閤腰掛岩

羽柴秀吉は最初、標高285mの龍王山に本陣を置きました。
武田勝頼との長篠の戦いの際にも、羽柴秀吉は、かなり後方の高い山に陣を置いており、すでに「慎重派」と申しましょか?、最前線ではなく、安全が担保されている場所(後方)を本陣として選んでいる傾向があります。
まぁ、織田信長もこの頃には同様ですが・・。

龍泉寺の太閤腰掛岩

龍王山の西中腹にある龍泉寺には「太閤腰掛岩」と呼ばせる巨石があります
本陣が龍王山にあった時、豊臣秀吉が腰掛けたと言われています。

石井山陣

石井山陣は標高60mの山で、備中高松城からは東の方向にあります。
羽柴秀吉は、最初には龍王山へ本陣を置きました。
しかし、水攻めを行うにあたり、本陣を石井山に移したと言うことになります。

石井山陣

太閤岩と呼ばれる方形の石もあるようですが、クルマでの侵入は困難なようでしたので、遠慮させて頂きました。


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他にも、激戦となった冠山城、降伏したとも言う宮路山城、備中・日幡城もありますが、これらはひとつの城として別ページにてご紹介させて頂いております。

豊臣秀吉は、天下人になったあと、小早川家に仕えていた清水宗治の子・清水景治(しみず-かげはる)を、知行1万石にて豊臣直臣に迎えようとします。
しかし、清水景治は断ります。
関ヶ原の戦いのあと、清水景治は萩に移り、毛利一門の家老に次ぐ寄組士2500石として重臣となりました。
ご子孫には、幕末に22歳で長州藩の家老になった清水親知がいます。

交通アクセス

備中・高松城への交通アクセスですが、鉄道の場合、JR吉備線「備中高松駅」にて下車して徒歩5分となります。
蛙ヶ鼻(かわずがはな)の築提跡までは、徒歩約10分の距離です。
クルマの場合、高松城址公園南側の駐車場が約25台、西側の駐車場が約12台で、いずれも無料となります。

備中高松城の戦い 備中高松城の水攻めの史跡なども別途ご紹介させて頂いております。

清水宗治~日本一の武辺者と呼ばれた名将の壮絶な自刃(史跡写真も)
備中高松城の戦い 備中高松城の水攻めの史跡など
備中松山城~雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿を見たい
三村家親 備中をほぼ統一するも短筒にて暗殺された大名
三村元親とは~備中兵乱にて毛利家に屈する
石川久式 最後まで主君を見捨てなかった石川源左衛門
幸山城(高山城) 備中・石川氏の豊かな拠点
宮路山城 備中高松城攻めの前哨戦で降伏した山城
安国寺恵瓊~毛利家の交渉人から大名になった僧と不動院
冠山城 備中高松城攻めの前哨戦で全滅した城
日幡城 羽柴勢に奪われるも奪還した毛利家の意地
庭瀬城 大賀ハスでも有名で生い立ちもユニークな沼城
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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