岡山県

大松山城 備中兵乱による三村家の滅亡

備中・大松山城(おおまつやま-じょう)は岡山県高梁市内山下の臥牛山にある山城です。

峰続きになっている備中松山城の城跡の一部とも言え、関ヶ原の戦いの直前くらいに整備されたの近世城郭の備中松山城ですので、それより前の合戦があった戦国時代には北側にあるこの「大松山城」が中心だったようです。
そのため、本稿では、大松山城としてご紹介し、備中松山城に関しては別記事にて記述させて頂いております。

大松山城を訪れる場合には2通りありますが、備中・松山城の一番奥にある、水の手御門跡から延びている遊歩道が適切です。
石積上は、後曲輪、九の平櫓跡となっており、大松山へは石積の横を進みます。

備中松山城

そのため、先に備中松山城を見て、実際に、大松山城に行こうと思いましたが・・。

だいぶ下がって、また上がってと言う、私が一番キライな行程パターンになることがわかりました。
備中松山城に登るだけで、だいぶくたびれ果てていましたので、下記写真の地点にてUターンいたしました。

大松山城

という事で、文字での説明ばかりになり恐縮ですが、ご説明だけ記載させて頂きます。

途中には、相畑城戸跡、天神の丸、大池などの遺構が点在しており、備中松山城からは約20分の行程となりますが、土塁を主体とした中世山城の遺構となります。
下記のような感じで連なっています。

大松山城

相畑城戸跡は標高約440mです。

鎌倉時代に承久の変で戦功を挙げて備中に所領を得て、1221年、最初は上房郡有漢町貞守の台ヶ鼻城に約18年間いたとあります。
館は秋庭氏居館跡だったとも推測致します。

その後、1240年に秋葉重信(秋庭三郎重信)が大松山に砦を築いて移転したのが、大松山城の始まりとされます。
もちろん、詰の城であって、平時は麓に館を構えていたのでしょう。
なお、秋葉氏は相模の三浦一族で、三浦義継―津久井義行―秋葉三郎義光と繋がっています。
秋庭重信(あきば-しげのぶ)のあとを継いだ、2代・秋庭八郎頼重は、備中の守護代となりて大松山城に居たとあります。

元弘年間(1331年~1334年)には、秋庭氏にかわって備後の三好氏の一族である高橋宗康(高橋九郎左衛門宗康)が大松山城に入りました。
このとき、城域が小松山まで拡大されたようで、小松山城には弟・高橋大五郎を居城させたとされます。
これが、備中・松山城がある小松山城の初見です。

1355年には、高師秀が大松山城に入城したとあるため、城を奪われたようですが、1362年に秋庭重明が高師秀を備前・徳倉城へ退かせています。
1467年、応仁の乱となると秋庭元明は、ほとんど京都で活動しており、そのあとの秋庭備中守元重は、足利幕府の管領・細川政元の側近として重用され、奏者番を務めました。
しかし、この秋庭元重を最後に、秋庭氏の名が見られなくなります。
1509年に、秋庭元重は有漢郷に戻って土着したとも言います。
1504年頃には、上野頼久が大松山城になったとあります。

西国に落ち延びていた室町幕府10代将軍・足利義稙は、近臣の上野信孝を備中・鬼邑山城に配置して、備中の勢力を取り込んだようです。
そして、上野信孝は3男・上野頼久を備中・松山城に入れた訳ですので、秋庭氏は権力争いに負けてしまった可能性があります。

しかし、時代は戦国です。

1533年、猿掛城の庄為資が備中・松山城を攻めて、上野頼氏を自刃に追い込みました。

1561年には、すぐ近くの鶴首城主・三村家親(みむら-いえちか)が、毛利家の小早川隆景の加勢を受けて、備中松山城を攻め、庄高資と尼子氏の援軍・吉田義辰を撤退させています。

備中・松山城を手に入れた三村家親は備中のほぼ全域と備前国の一部を手中に収めていました。
しかし、1566年、美作・興禅寺にて、沼城主である宇喜多直家の刺客が鉄砲で狙撃し暗殺されます。
子の三村元親は2万を率いて父の仇討ちとして、5000の宇喜多直家を攻めますが、明禅寺の戦いで大敗します。
そして、弱体したところを、宇喜多勢の加勢を受けた庄高資が、1567年に備中松山城を奪回しました。
しかし、三村元親も、毛利元清の加勢を受けて反撃し、1571年には備中松山城を奪い返しています。

1574年、毛利家の小早川隆景と宇喜多家が和睦すると、三村元親は毛利家から離反して織田信長に通じたため、毛利・宇喜多の両軍8万の追討を受け、備中松山城にて籠城しました。
この戦いを「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と言いますが、この時、備中松山城には、21丸と呼ばれた数多くの砦があり要塞化されていたと言います。
籠城して約1ヶ月、内応者が出て、天神の丸が陥落します。
その後も寝返りが絶えず、1575年5月、三村元親は落ち延びようとしますが、その途中でケガをして捕縛されたようで、切腹を願い出て許されたとあります。
城下の松蓮寺にて命を絶ち、有力家臣の石川久式も自刃し、この備中兵乱が終焉することで戦国大名としての三村氏は滅亡しました。

こうして、備中松山城は毛利家の支配地となり、1578年には、尼子家再興を目指していた山中幸盛(山中鹿之介)が、播磨・上月城から護送の途中、阿井の渡しにて誅殺されています。
また、備中松山城も、毛利家によって改修が行われ、小松山城に本格的な城が築かれた模様です。

毛利家の家臣である天野五郎左衛門、桂民部大輔らが備中・松山城主を努めました。

備中松山城

一説によると天守も建てられたようですが、1600年、関ヶ原の戦いのあとには、幕府直轄領となり、小堀正次が備中松山城を預かりました。

以後の話は、小松山城に築かれた備中・松山城が中心となるため、別記事の備中松山城にて詳しく記載しております。

天神の丸跡は、これひとつでも城と言えますが、出丸・出城のような感じでしょうか?
大松山城と天神之丸、そして備中松山城がある小松山城の3つのピークをあわせて松山城と言っても良いでしょう。
なお、1574年の備中兵乱では、天神の丸が最初に陥落したと言われます。





なお、大池と呼ばれる水源があり、今でも結構な量の水があるため、籠城するにはもってこいの山城であったようです。
石垣で池を囲っているため、江戸時代に入ってからも重要視されていたのでしょう。

大松山城跡への交通アクセスですが、前述のとおり、有名な観光地となってしまった備中・松山城の一番裏から、そのまま大松山に向かう遊歩道があります。
または、備中松山城の雲海撮影のスポットになっている東側にの尾根の終点に駐車場がありますので、そこから鉄橋(吊橋)を渡って、松山城への遊歩道も利用可能です。

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