岡山県

院庄館 美作守護の院庄館跡で後醍醐天皇ゆかりの地

院庄館

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院庄館跡(いんのしょう-やかたあと)は、岡山県津山市神戸(じんご)にある館跡(平城)です。
鎌倉時代から室町時代にかけて、美作守護職の館があったとされ、国指定史跡となっています。

方八十間(ほうはちじゅっけん)と呼ばれた広大な館跡は、約500メートルの土塁が残っており、一部は水堀も現存します。
なお、周辺には御館、御館掘り、掘りなどの地名が垣間見えるみとから、現在の城域は本丸であり、もっと大規模な城であったと推定されます。

院庄館

1332年に、元弘の変に敗れていた後醍醐天皇が隠岐へ流される際に、児島高徳が天皇を慕って、桜の幹に十字の詩を記したとことで、よく知られる伝承の地です。

院庄館跡

ただし、この国民的英雄である児島高徳(兒嶋髙德、こじま-たかのり)なる武将は、備前国児島郡林村の出身ともされますが、出自はよくわかっていません。
児島高徳はただ一人、後醍醐天皇を救出するため、夜になるのを待って、院庄館に忍び込み、天皇宿舎付近へ迫りました。
しかし、警備が厳重だったため、天皇奪還を断念し、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り、天皇を勇気付けたとされます。

院庄館跡

ちなみに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を兵士らは発見しましたが意味がわからず、仔細を聞いた後醍醐天皇のみ、この漢詩の意味が理解したとされます。

院庄館

その言葉の通り、翌年には名和長高らの導きによって後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の船上山にて挙兵します。
児島高徳も養父で、備前・三石城主の児島範長とともに参陣すると、室町幕府軍と戦い戦功を挙げたとされます。
ただ、伝説に近いような武将で、諸説ありますこと、ご容赦願います。

院庄館

なお、児島高徳の血をひくのが、200年後登場する宇喜多直家とも言います。

今回、小生が院庄館を訪問したかったのは、上記のような伝説からではありません。

院庄館跡

関ヶ原の戦いのあと、1603年に岡山城主の小早川秀秋が急死し、美作は18万6500石にて森蘭丸の弟・森忠政が拝領し、松城城から移ってきます。
この時、旧・小早川家の多くの家臣が抵抗したそうなのですが、苦労して美作に入った森忠政は、最初、この院庄館跡を大改修して、本拠地にしようとしました。
実際に、工事も開始したようで、森忠政は最初の1年間、院庄構城(かまえじょう)として住んでいます。
しかし、重臣・井戸宇右衛門との対立すると、森忠政は名古屋山三郎に命じて、院庄館跡の工事現場にて家老の井戸宇右衛門を殺害されました。
2人は果たし合いをしたとされ、その場所が「にらみ合いの松」となっています。

にらみ合いの松

こんなこともあったので、結局、鶴山城跡に新城を築く異なり「津山城」が完成するのですが、この殺害事件はともかく、本拠にしようと考えた、院庄館はどのようなところだったのかと気になったので、訪れてみました。
そうそう、アヤメが咲いてました。

院庄館跡のアヤメ

院庄館跡には作楽神社(さくら)がありますが、これは明治2年(1871年)に、津山藩主・松平慶倫が後醍醐天皇と児島高徳を祀るために創建した神社となります。

作楽神社

国の重要文化財に指定されている松平慶倫が寄進した太刀銘国行が社宝となっています。

院庄館への行き方・交通アクセスですが、神社入口に大きな無料駐車場が完備されています。
ただ、そこまでのアプローチする道路は、そんなに広くはありませんので、安全運転でお願いします。
観光所要時間は20分といったところです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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