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三河・田原城の解説~竹千代強奪と「べっぴん」の語源

田原城城址碑

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三河・田原城とは

田原城(たはら-じょう)は愛知県田原市にある平城で、戦国大名の戸田氏が渥美半島を支配する際の拠点としており、江戸時代には田原藩の藩庁が置かれた城です。
現在は内陸部に位置する田原城ですが、築城当時は城の北と東側は海に面していて、海の水を引き込んで巴型に堀を廻らした水城であり、その堀の形から別名を巴江城(はこう-じょう)と呼ばれていました。

田原城海岸線
○蔵王山から見た田原城
※中央の青い点線で囲まれたあたりが当時の海岸線

戸田氏の源流は尾張国海部郡戸田(現在の名古屋市中川区戸田)を支配した事により戸田氏と称したとされますが、その出自には様々な説があり、『寛政重修諸家譜』では正親町三条公治の孫にあたる人物が祖とされていますが、別の史料には清和源氏の流れを汲むとも記されており、その出自は定かではないようです。

戸田城跡の八幡社
○戸田城があったとされる地域の北端に建つ八幡社

鎌倉時代の建保年間(1213年~1219年)には戸田信義が御家人として戸田の地頭になったとの記録があり、その後の室町時代には伊勢氏被官の豪族だった事も記録には残されていますが、三河戸田氏の祖とされる人物は戸田宗光(とだ-むねみつ)からであり、正親町家の領地である三河国碧海郡上野に上野城(うえの-じょう)を築いて一帯を支配した事から始まり、三河戸田氏中興の祖と称えられました。


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寛政6年(1465年)額田郡一揆が勃発し、松平信光(まつだいら-のぶみつ)と、その娘婿であった戸田宗光が中心となり一揆を平定。
これにより松平氏深溝城(ふこうず-じょう)などの地を得て領地を拡大していく一方、戸田宗光は碧海郡の代官にありながら、知多半島の東岸にある富貴(ふき)も領有し、文明7年(1475年)には三河国渥美郡に入り勢力を拡大していきます。

歴史

文明8年(1476年)駿河を中心として領土を拡大中だった今川義忠(いまがわ-よしただ)は遠江侵攻の最中に討ち死にを遂げます。跡継ぎである龍王丸はわずか4歳にすぎず、今川義忠の従兄弟である小鹿範満(おしか-のりみつ)が家督継承を主張し、今川家に内紛が起こります。
今川氏の影響力が薄くなった東三河一帯は次第に戸田宗光の支配する所となり、本拠である上野城を次男の戸田家光(とだ-いえみつ)に譲り渡した後、文明11年(1479年)には田原に進出して、同地を支配していた一色政照(いっしき-まさてる)の養子となる事で渥美郡一帯の支配権を確立するとともに、田原城を築いて三河湾の制海権を手中に収めました。

渥美半島の支配権を確立した後、対岸の知多半島の一部をも支配して三河湾の制海権をほぼ手中に治めた戸田宗光はさらなる版図拡大を目指して北へ進み、明応2年(1493年)には田原城を嫡男の戸田憲光(とだ-のりみつ)に譲り渡し、渥美郡の北端に二連木城(にれぎ-じょう)を築いて新たな本拠地とし、今橋城(いまはし-じょう)を支配する牧野氏との抗争を繰り広げていきました。

二連木城城址碑
○二連木城跡

永正年間(1504年~1521年)に入ると今川家の家督を継ぎ、龍王丸から名を改めた今川氏親(いまがわ-うじちか)は、叔父の伊勢新九郎(北条早雲)の力を借りながら勢力を拡大していき、東三河への影響力を強めていきます。
戸田宗光の死後、跡を継いだ2代目田原城主の戸田憲光は今川氏に属し、その息子である戸田政光(とだ-まさみつ)も今川氏の配下として代を重ねていきます。
大永6年(1526年)戸田政光の跡を継いだ4代目の戸田康光(とだ-やすみつ)は、当初、曾祖父と同じ戸田宗光(とだ-むねみつ)を名乗っていましたが、享禄2年(1529年)岡崎を拠点として急速に力を付けてきた松平清康(まつだいら-きよやす)の東三河平定戦の際に松平氏に降り、清康の一字を貰い受けて康光と名を改め、渥美半島を中心とした勢力を保ち続ける事に成功しています。


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しかし、森山崩れによって松平清康が陣没すると、東三河一帯への松平氏の影響力は急速に衰えを見せ始め、再び今川氏の三河進出にさらされる事となり、天文15年(1546年)には三河・吉田城主であった戸田氏一族の戸田宣成(とだ-のぶなり)が三河へと侵攻してきた今川軍に討ち取られてしまいます。
東から今川氏、西からは尾張の織田氏の攻撃に苦しめられていた松平広忠(まつだいら-ひろただ)は今川氏の軍門に降る事を決意し、天文16年(1547年)嫡子の竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏の本拠地である駿府へと送る事とします。
その警護役として同道した戸田康光は、田原城対岸の西郡にある犬飼湊に船を出して松平竹千代を迎え入れ、田原城へと連れてきますが、突如として今川氏と松平氏を裏切り、人質である松平竹千代を強奪して尾張の織田氏の元へ送り届けてしまいます。

犬飼湊
○犬飼湊の碑

戸田康光の裏切に関しては、三河・吉田城で戸田氏一族を抹殺した今川家に対して恨みを持っていたなど、諸説ありますが、駿河の今川義元(いまがわ-よしもと)がこの裏切り行為を許すはずもなく、吉田城の在番であった天野景貫(あまの-かげつら)に命じて大軍を持って田原城を攻め落とし、戸田康光の首を打ち落としてしまいます。
その後、田原城には今川家の家臣である朝比奈氏や岡部氏が城代となって入城しますが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げると、永禄7年(1564年)には三河統一を目指した徳川家康の軍勢が攻め寄せ、今川軍を退散させて田原城を手中に収めます。
田原城から南東に約5km程に位置する長仙寺は、田原城攻略戦の際に徳川家康が本陣を敷いた碑が立てられています。

徳川家康本陣跡の碑
○徳川家康本陣跡の碑

天正18年(1590年)徳川家康が関東移封になると、田原城は吉田城主となった池田輝政(いけだ-てるまさ)の配下である伊木忠次(いき-ただつぐ)が入城し、土塁や空堀などを改修し、二の丸櫓や桜門を建造するなどして、田原城は近世城郭へと変貌を遂げていきます。
慶長6年(1601年)関ケ原の戦いの戦後処理により、池田輝政は姫路52万石へと栄転し、田原城は戸田康光の弟、戸田光忠(とだ-みつただ)の嫡孫にあたる戸田尊次(とだ-たかつぐ)が1万石で田原藩を設立し、先祖の地へ大名として返り咲く事になりました。

その後、戸田氏は九州の天草へと移り、田原城へは拳母から三宅氏が入封され、12代200年余り三宅氏の支配が続いた後、幕末を迎える事となります。
幕末を迎える頃には渡辺崋山(わたなべ-かざん)が家老として藩を采配し、憂国の先駆者として名を残しますが、蛮社の獄によって蟄居処分となり、失意のうちに自刃。その後、渡辺崋山の功績を称え田原城内には崋山神社が建立されました。

崋山神社
○崋山神社

渡辺崋山の跡を継いだ、渡辺小華(わたなべ-しょうか)も父同様に才能にあふれた人物で、吉田城下のうなぎ屋で「すこぶる別品(べっぴん)」の看板を掲げて鰻を売り出すように提案した所、大好評となり、極上品は「別品」と呼ばれるようになりました。
その後、明治中期には美女の事も別嬪(べっぴん)と呼ぶようになったと言われており、現在も吉田宿本陣跡近くで「べっぴん」の鰻が提供されています。
※「べっぴん」語源発祥の地の看板より抜粋

べっぴんの語源
○「べっぴん」語源発祥の地の看板

交通アクセスと登城

推奨ルート:
田原駅→(徒歩分)→田原城惣門跡→田原城址(田原市博物館)→(徒歩分)→崋山神社→(徒歩分)→池ノ原公園(渡辺崋山幽居地)

公共交通機関で行く場合は、JRもしくは名古屋鉄道の豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗り換え、終点の三河田原駅で下車。
自家用車の場合は、城址北側に博物館の無料駐車場がありますので、そこに駐車をしてください。
なお、博物館は月曜日が休館となっておりますが、休館日が変更になる場合もありますので、HPで確認してから訪問するようにしてください。

田原城惣門跡の周囲には駐車場スペースはありませんので、自家用車の場合は田原城から歩くようにしてください。

田原城
○桜門

田原城の桜門を潜り、右に曲がった先の曲輪には渡辺崋山と村上清谷(むらかみ-せいこく)の碑が立てられています。
碑の背後は空堀になっていますが、立ち入る事はできません。

渡辺崋山の碑文
○渡辺崋山の碑

村上清谷の碑
○村上清谷の碑
村上清谷は幕末動乱期に田原藩を支えた砲術家で、各藩への砲術を指南した他、田原藩の軍備を西洋式に変更しました。
家老に就任した後は海産物を西洋に輸出する事で藩の財政を支えようと腐心し、明治維新後も藩政に携わった人物です。

大手道に戻り、正面に位置する本郭には巴江神社が鎮座していますので、先に参拝を済ませた後、大手道左手に位置する二の丸に建てられた田原市博物館には田原城だけでなく、田原地域の歴史を学ぶ事ができます。

巴江神社
○巴江神社

博物館を出て右手の通路を通って崋山会館を抜けて崋山神社に出た後、本殿裏手の道路を西に進んだ先には、渡辺崋山幽居地の建物がある池ノ原公園に出ます。

渡辺崋山幽居地
○渡辺崋山幽居地

その他関連施設等

・蔵王山展望台
愛知県田原市浦町蔵王1-46
田原城から車で10分程度の蔵王山山頂に展望台が建てられており、北は三河湾をはさんで蒲郡まで一望でき、南は太平洋の広がりを眺める事ができる絶景スポットです。
※山頂までは舗装された道路が続いており、駐車場も整備されていますが、一部で道幅が狭かったり、山頂付近では歩行者が車道を歩く個所もありますので、運転には注意してください。

蔵王展望台から犬飼湊方面を望む
○蔵王山展望台から三河湾をはさんで犬飼湊方面を望む

・長仙寺
愛知県田原市六連町居屋敷26
徳川家康が本陣として使用した他、戸田氏が田原城建設の際には伽藍の一部を破却して再利用したと記されています。

長仙寺の由緒板
○長仙寺の由緒板

・二連木城
愛知県豊橋市二連木町
城跡は大口公園となっており、土塁や堀跡と伝わる遺構を見る事ができますが、近隣に駐車スペースがないため、公共交通機関での訪問をお勧めします。

二連木城土塁
○二連木城の土塁

・吉田宿本陣跡/「べっぴん」の看板
愛知県豊橋市札木町50
市内の道路脇にあり、駐車スペースはありません。

吉田宿本陣跡
○吉田宿本陣跡の看板

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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