三重県

伊勢・千種城の解説~かつて公家の家柄だった千種忠治(千種卜斎)の苦悩

伊勢・千種城

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伊勢・千種城

伊勢・千種城 (ちぐさじょう) は 三重県三重郡菰野町千種にある標高110m、比高20mほどの平山城
最初の築城としては南北朝時代の1381年に千種忠顕の子・千種顕経が築いたとされる。
公家であった六条有忠の子・千種忠顕(ちくさ ただあき)は、1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇と共に配所を脱して伯耆の名和長年に迎えられ、船上山にて倒幕の兵を挙げた。
千種忠顕は、1336年に足利直義と戦って討死したが、4男の千種顕経(ちぐさ あきつね)が北畠顕信らと南朝方として、足利義詮を近江に退去させるなど活躍した。

1369年、足利義満が土岐頼康に命じて北伊勢へ侵攻すると、伊勢国司・北畠顕康は三重郡に砦を築いて対抗。
このとき、千種顕経は三重郡24郷を与えられて禅林寺城を築くと、公家諸将の総大将として三重郡を統轄したとされる。
そして禅林寺城を本拠としていたが、伊勢・千種城を築いて移転したと言う事になるようだ。
<注釈> 千種忠顕の長男・千種通治の子である千種隆通が弘和元年(永徳元年、1381年)に千種城を築いたともされる。


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永徳年間(1381年〜1384年)の千種顕季の時には、北伊勢四十八家の棟梁として、宇野部、後藤、赤堀、楠、稲葉、南部、萱生、冨田、浜田、阿下喜、白瀬、高松、茂福、木俣ら北勢四十八家一千騎を率いた。
このように千種氏は北畠氏ともに村上源氏の出であり、北畠氏から客将の扱いを受けていたようだ。

北勢四十八家とは

北勢四十八家(ほくせいしじゅうはちけ)とは伊勢国の北部(北伊勢)、現在の四日市市周辺に勢力を持った小豪族の総称。
実際には約53家ほどあったが、滅亡したり分家したりもするため流動的で正確な数は不明といったところ。

北勢四十八家の棟梁格としては、南朝勢力の末裔と言う家筋から伊勢・千種城の千種氏であったが戦力的には弱い。

千種氏(千種城)
関氏(伊勢・亀山城、鹿伏兎城、峯城、関城、国府城)
長野氏(伊勢・長野城)
赤堀氏(赤堀城、羽津城、中野城)
楠氏(楠城)
稲生氏(稲生城)
矢田氏(走井城)
田丸氏
後藤氏(宇野部城、別所城、糖田城)
沼木氏(柿城)
大矢知氏(大矢知城)
片岡氏(上深谷城
水谷氏(大鳥井城)
栗田氏(縄生城)
高井氏(小山城
小串氏(猪飼城)
草薙氏(御衣野城)
横瀬氏(広永城)
江見氏
毛利氏(桑部城)
富永氏(長深城)
保々氏(保々城)
多湖氏(笠田城)
治田氏(治田城)
片山氏(上木城)
西野氏(野尻城
野村氏(島田城)
浜田氏(伊勢・浜田城
小阪氏(梅戸城)
近藤氏(白瀬城、深谷部北狭間城)
安藤氏(深谷部柳が島城)
西松氏(柚井城)
森氏(中江城)
片岡氏(堺村城)
南部氏(富田城)
朝倉氏(茂福城)
松岡氏(上井城、城井戸城、金井城)
種村氏(伊勢・金井城
田原氏(羽津城、赤堀城)
春日部氏(伊坂城、星川城、萱生城)
伊藤氏(桑名城伊勢・長島城、松ヶ島城)

上記とは別に、北畠氏・長野氏・関氏の3家は勢力を伸ばし、室町時代末期に伊勢三家と呼ばれていた。


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戦国時代に入ると弘治元年(1555年)に近江の佐々木義賢(六角義賢)の家臣・小倉三河守ら3000が千種城を攻めると、千種氏の家臣・萩沢備前守が夜襲を掛けるなどし、六角氏の求めに応じて城主・千種忠治は和議を結んでいる。
六角氏の重臣・後藤賢豊(後藤但馬守賢豊)の弟・千種忠基が千種忠治の娘と結婚して千種忠治の養子となり、北勢四十八家も六角氏の支配下となった。

その後、千種忠治に実子が生まれたので、千種忠治は当然、子の千種又三郎に家督を継がせようと考えた。
そのため、養子の千種三郎左衛門忠基によって、千種忠治と千種又三郎は千種城から追放されたと言う。
千種忠治は親戚である萱生城主・春日部大膳、星川城主・春日部若狭守らの協力を得て千種城の奪還したとも、敗れて六角氏のもとに身を寄せたとも諸説ある。

1567年、稲葉山城を落とした織田信長は、逃走した斎藤龍興を追って伊勢へ侵攻し、桑名に本陣を置くと北勢四十八家の諸城を攻略開始。
1568年、北勢の諸家と千種又三郎らは織田家に臣従した。
しかし、千種又三郎は六角氏に通じているとされ、滝川一益の家来・梅津某によって殺害させた。
出家していた千種忠治(千種卜斎)は難を逃れて伊賀にて隠棲していると、1583年、織田信雄が伊勢長島城に入ったとき千種忠治は千種城への復帰を許されて、伊勢・津城の冨田知信の甥を養子に迎えて千種顕理と名乗らせている。
<注釈> 千種忠治1563年に観音寺城にて六角義賢に謀殺されたともある。

一方、千種忠基(千種三郎左衛門忠基)は、小牧・長久手の戦いの際に美濃・加賀野井城を攻撃して、伊勢・浜田城田原重綱らと共に討死したともされる。

1570年5月、浅井長政の裏切りにあい、越前・金ヶ崎城から京に逃れた織田信長は、岐阜城に戻る際に蒲生賢秀の案内にて「千種越え」で伊勢に入っている。
ただし、六角承禎の意を受けた杉谷善住坊の一党が刺客となって待ち伏せしており、4発の鉄砲が織田信長に発射されたことでも知られる。


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千種顕理は織田信雄が没落すると、音羽村で600石にて豊臣秀吉豊臣秀頼に仕えた。
慶長20年(1615年)、千種顕理は大阪夏の陣で討死しており千種家は断絶。
千種城も廃城になったようだ。

交通アクセス

近鉄湯の山線・菰野駅(こもの)からタクシーで15分。
駐車場らしき場所を当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面では登城口をポイントしている。
止められない場合には、広い広場になっている「千種こども公園」にクルマを止められそうだ。
サル出没注意。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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