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鴫山城~会津田島の山城~長沼盛秀・長沼実国・ 長沼盛秀

鴫山城




鴫山城とは

鴫山城(しぎやま-じょう) は、福島県南会津郡南会津町田島にある山城で、標高745m、比高190mになります。
別名は、南山城、陸奥・長沼城とも言います。
南山城の由来としては、会津への入口となる、南山口(みなみやまぐち)を固める山城という意味になります。
鴫山城は、外郭、内城、詰め城の3段構成となっており、山頂の愛宕神社の部分が、詰め城と言え、平時は下段の内城部分の平坦地(比高45m付近)を使用していたようです。

鴫山城

最初の築城は不明ですが、会津田島は、鎌倉の1189年、源頼朝の奥州攻めにて、武功をあげ、長沼五郎左衛門尉宗政が南会津を加増された模様です。
この長沼氏は、藤原秀郷の子孫・下野国小山氏の一族で、小山政光の次男・小山宗政が下野国芳賀郡長沼(栃木県真岡市)に領地を得て、長沼氏を称したのが始まりです。
長沼宗政は、長沼荘以外に、下野国御厨別当職、都賀郡小薬郷、陸奥(南会津)・美濃・美作・武蔵などの所領を獲得しています。
ちなみに、淡路国守護職は鎌倉時代末期まで長沼氏に相伝されていました。(実質的な支配までには至っていなかったようですが)





鎌倉時代の末期、1299年、長沼宗秀(ながぬま むねひで)が、陸奥・長江荘(会津田島)などの所領安堵を受けています。
須賀川にも長沼城があり、1260年に、長沼隆時にる武将が築いたともされます。

南北朝時代に入ると、下野国・長沼荘から、嫡流の長沼秀直(長沼秀行の子)が陸奥国長江荘(南山荘、福島県南会津町田島)の領地に移ったようです。
ただし、下野・長沼氏も、存続はしていたようです。
長沼秀直の子・長沼義秀は、陸奥・会津にて勢力を伸ばし、鎌倉公方・足利氏満に従いました。
そして、鎌倉公方・足利持氏は、下野・長沼氏の長井次郎入道から、下野・長沼の領地を没収して、長沼義秀(淡路入道義秀)に与えており、南会津から下野へ本拠を移し、皆川庄にて皆川城を築いたようです。
※1429年に、長沼秀宗が会津田島から移って皆川城を築いたともあり、諸説ある。





室町時代、関東地方において屋形号を称する事が許された有力大名は「関東八屋形」(かんとうはちやかた)と言います。
宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、那須氏、結城氏、そして、長沼氏を含めた八家を指します。

1455年、筑波潤朝(筑波山中禅寺別当潤朝)による、軍忠状では、筑波潤朝は結城合戦のとき結城方に属して、長沼淡路守の城(下野・皆川城?)を攻め、父・筑波玄朝らが討死したとあります。
すなわち、古河公方側が、下野・皆川城を攻撃したようで、下野・長沼氏は没落したと考えられます。
その後、長沼氏は家督争いとなり、最終的に敗れた、長沼次郎なる武将(長沼氏秀か?)が、奥州の篠川公方・足利満直を頼って逃れたとあります。

ただし、会津田島には、一族か庶子が残っており、引き続き長沼氏が領していたようです。
会津四家(芦名氏・河原田氏・山之内氏・長沼氏)に数えられ、長沼氏も独立性を保っていたようです。





1453年、会津・黒川城の葦名盛詮は、白川直朝の応援を得て、反乱を企てた家臣の松本右馬允と芳賀将監を攻撃します。
この2人は、会津・高田館に逃れたあと、南山を通って日光山へ逃走開始します。
このとき、会津・田島城主の長沼政義(長沼出羽守政義)が、芳賀将監と子を討ち取りました。

1459年に、山内越中と白川結城氏が「南山しき山の城」を、陥落したとの記録が残っているようです。
ただし、長沼氏は、蘆名氏の支援を受けて、宇都宮氏に横領されていた、下野・三依郷を回復したともあります。

そして、陸奥の長沼氏は、戦国時代を迎えます。

1495年、葦名盛高に謀反を起こした松本備前と伊藤民部が、南山を抜けて、下野・宇都宮氏のもとへ逃れようとした際に、長沼盛秀が2人を追撃して、郎党33人を討ち取るなど、南会津最大の勢力として活躍が見られます。

1521年、葦名盛舜が家督を継ぐと、反対した長沼実国(長沼豊後守実国)は、蘆名盛舜と対立しています。
以後、蘆名盛氏と長沼実国も、抗争は続いたようで、1561年2月も蘆名盛氏は、長沼実国を攻めて屈服させました。
なお、この黒川城が留守の間に、蘆名盛舜の庶長子・蘆名氏方が、富田義実らに奉じられ謀叛を企てますが、数日で鎮圧され、東山で家臣と共に自害しています。





ややっこしいのですが、長沼実国のあとは、長沼盛秀が家督を継ぎます。
<注釈> 長沼盛秀 → 長沼実国 → 長沼兵庫盛秀と続いた

1589年、伊達政宗との摺上原の戦いで葦名氏が滅亡すると、もともと伊達派であったは、いち早く伊達氏に帰順しました。
しかし、同じ南会津の領主、山内氏勝と河原田盛次らは、伊達政宗に対して徹底抗戦したため、長沼盛秀と伊達勢は、簗取城や泉田城(河原崎城)を攻撃しています。

1590年3月、豊臣秀吉小田原城を攻撃するため、三枚橋城に入ろうとしていたころ、河原田盛勝(河原田大膳盛勝)が、駒止峠を越えて会津・田島に侵攻しました。
大豆渡村にて激戦となったようですが、長沼盛秀は、このときの負傷で、のち亡くなったとされます。
なお、伊達政宗は、小田原に参陣しましたが、長沼氏は、合戦中でもあり、小田原に行くことができなかった状況でもあったと言えます。

長男・長沼福国、次男・長沼盛重、三男・長沼九郎左衛門が、鴫山城を守ったようですが、1590年7月、豊臣秀吉の奥州仕置により、蒲生氏郷が会津・黒川城に入り、南会津も蒲生氏の領地となりました。
兄弟らは伊達政宗に従い、長く支配した南山地方をあとにして、米沢城下に移住したようです。

田島宿(福島県南会津町)は、長沼氏の居城だった鴫山城の城下町として整備され発展した町でした。





ちなみに、下野・皆川城の皆川広照は、北条氏直に従っていたため、小田原城の籠城にて、北条氏照の軍勢に加わっていました。
しかし、秘かに、徳川家康に投降しており、北条滅亡後、所領が安堵され、本拠を栃木城に移しました。

蒲生氏から新たに派遣された、鴫山城の城代は、6300石の小倉行春であり、南山城の改修し、む田出宇賀神社を再興するなどしています。
この小倉行春(小倉孫作)は、のち蒲生家を出奔すると、大坂城の豊臣秀頼に仕え、大坂夏の陣では、明石全登と一緒に、徳川家康本陣に突撃しています。

上杉景勝が、会津・若松城に入ると、直江兼続の弟・大国実頼が、鴫山城を任され、大門付近の改修などを行ったようです。

1627年、加藤嘉明が会津藩主になった際に、鴫山城は廃城になったようです。
保科正之が会津藩主となると、南会津は天領(幕府直轄領)となり、鴫山城跡には田島陣屋が置かれました。





大門跡の石垣が復元されているようですが、時間の関係で、遠景撮影に留めさせて頂きました。
山頂に愛宕神社は、2015年の雷により、現在、焼失しているとの事です。

交通アクセス

会津鉄道「会津線」会津田島駅から入口まで徒歩10分。
駐車場は、福島県南会津合同庁舎の駐車場を利用すると良いかも知れません。
城跡の入口から、山頂の愛宕神社までは、30分ほどの登山となり、熊除け・熊鈴が必須となります。

鴫山城の場所などは、当方のオリジナル東北地図にて、ポイントしております。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

このあとは、鶴ヶ渕城へ向かいました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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