陸奥・守山城
陸奥・守山城(もりやまじょう)は、福島県郡山市田村町守山にある平山城です。
最初の築城としては、平安時代初期に、蝦夷追討にて大和朝廷軍を率いた、坂上田村麻呂が城(砦)を築いたと伝わります。
その後、坂上田村麻呂の子孫を称する、田村氏が本拠として、鎌倉時代と存在しました。
その最初の田村庄司は、藤原仲能の系統とも、と言う事ですが、南北朝時代に、陸奥・守山城を本拠にしていた田村義顕は、平義顕(平清顕)とも称しているため、いつしか、藤原姓の田村氏は滅んで、平氏の田村氏に変わっていたと推測できます。
もちろん、平時の舘は、街道沿いや、現在の小学校の場所など、低い位置にあったものと推測されます。
田村庄司の乱
恐らくは、1380年、下野守護・小山義政の乱(小山氏の乱)の際に、鎌倉公方・足利氏満の攻撃で小山氏は没落します。
そして、小山義政の遺児・小山若犬丸(小山隆政)は、1386年に、祇園城(下野・小山城)にて挙兵するも敗れて、奥州へ逃れました。
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このとき、脇屋義則(新田氏)や田村氏などが、小山若犬丸(小山隆政)に味方しており、1396年、田村則義・田村清包の親子は、南朝方として戦うも敗れます。
そのため、田村領は、鎌倉公方・足利氏満に制圧されたようで、田村庄司氏は没落しました。
その後、田村郡北東部にいた、平姓の田村氏が、田村領を支配するようになり、白河・搦目城の結城直朝・結城政朝に従いつつ、勢力を拡大していったと見られます。
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第23代・田村義顕(たむら よしあき)は、戦国時代の1504年に、三春城を築いて、陸奥・守山城から本拠を移しました。
田村義顕は、陸奥・大館城主である岩城常隆の娘を、正室に迎えています。
その後、第25代・田村清顕(たむら きよあき)は、佐竹氏や蘆名氏に対抗するため、一人娘「愛姫」を、伊達政宗の正室として送り、伊達勢の支援を得ることで、独立を維持しています。
1582年、二階堂氏が陸奥・守山城へ侵攻していますが、田村勢は宿尻で持ちこたえ、二階堂氏を撃退することに成功しました。
しかし、相馬顕胤の娘・於北との間に、愛姫以外に子に恵まれないまま、田村清顕は1586年に死去したため、伊達家と相馬家は、田村家に養子を送ろうと画策し、家中も分裂します。
1588年には、郡山合戦となり、勝利した伊達政宗は、白石宗実、片倉景綱らを、陸奥・守山城に入れて、蘆名氏を摺上原の戦いで破り、東北をほぼ制圧します。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、奥州仕置にて、田村領は、伊達政宗に与えられますが、すぐに、会津・黒川城の蒲生氏郷の領地に組み込まれました。
そして、田丸具直が三春城に入っていますが、1595年までに、豊臣秀吉の命にて三春城が廃城になったので、田丸具直は、この陸奥・守山城へ移っています。
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蒲生秀行は、お家騒動で、1598年、宇都宮城へ減封となると、会津・若松城に入った上杉景勝の支配下となりました。
陸奥・守山城には、須田長義・本庄繁長・竹俣利綱などにと、城主が変わっています。
1600年、関ヶ原の戦いで、蒲生秀行は、宇都宮城に残り、上杉景勝の抑えとなった功績にて、会津60万石として復活し、一族の蒲生郷成が、陸奥・守山城を任させています。
江戸幕府の命もあり、廃城になっていた三春城が、1609年までに改修されると、守山城は使われなくなり、1615年、一国一城令にて廃城になったようです。
城山八幡宮の西側に、大きな堀跡がありました。
その堀の上側が、駐車スペースになっています。
陸奥・守山城の見学所要時間は、5分~20分程度です。
交通アクセス
JR水郡線の磐城守山駅から徒歩11分の距離です。
城山八幡宮の西側が入口で、その神社手前に広い空き地があり、クルマも駐車できます。
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