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三春城の解説【続日本100名城】田村隆顕・田村清顕

三春城




三春城とは

三春城(みはるじょう)は、福島県田村郡三春町にある標高407m、比高80mほどの山城です。
別名は、舞鶴城とも言いますが、一般的には三春城と言う場合が多いです。
桜の名所なもなっているように、公園として整備されている他、続日本100名城にも選出されています。
今回は紅葉の時期に訪問させて頂きました。

三春城

もともと、田村氏は、坂上田村麻呂の末裔ともさり、鎌倉時代に田村庄司として存在しています。
最初は、藤原姓の田村氏でしたが、陸奥・守山城を本拠にしていた田村義顕は、平義顕(平清顕)とも称しているため、いつしか、藤原姓の田村氏は滅んで、平氏の田村氏に変わっていたと考えられます。





その第23代・田村義顕(たむら よしあき)は、戦国時代の1504年に、三春城を築いて、陸奥・守山城から本拠を移しました。
田村義顕は、陸奥・大館城主である岩城常隆の娘を、正室に迎えています。

三春城

田村氏24代・田村隆顕(たむら たかあき)は、伊達稙宗の娘を正室に迎えて、伊達氏に従属する形で、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏に対抗しました。
※当サイトでは、記事中の写真は、パソコンなど大きな画面でクリックすると拡大表示されます。

三春城

しかし、1542年からの天文の乱で、伊達家は、伊達稙宗と嫡男・伊達晴宗の親子が内紛となり、周辺諸国を巻き込んで、伊達稙宗派と、伊達晴宗派が対立します。
会津・黒川城の蘆名盛氏が、伊達晴宗派に転じると、三春城の田村隆顕は、会津の蘆名氏と敵対したため、1549年、伊達稙宗派である相馬顕胤の娘・於北を、嫡子・田村清顕の正室に迎え、陸奥・小高城からの後方支援を確保しています。
また、田村隆顕は、小大名ながらも、外交にも優れ、田村氏を維持しましたが、1574年に亡くなると、田村氏25代に、子の田村清顕(たむら きよあき)が就きます。

三春城

田村清顕はなかなかの大名で、1575年9月には、安積郡に侵攻開始し、陸奥・片平城の伊東祐時を会津に追いやり、高倉城の畠山治部、陸奥・郡山城の伊東太郎左衛門らを服属させたほか、一時、白河日峰城も、落としたようです。
更に、1579年、佐竹氏や蘆名氏に対抗するため、一人娘「愛姫」を、伊達政宗の正室として送り、伊達勢の支援を得ることで、独立を維持しました。

三春城

1582年、二階堂氏が陸奥・守山城へ侵攻していますが、田村勢は宿尻で持ちこたえ、二階堂氏を撃退することに成功しています。
しかし、相馬顕胤の娘・於北との間に、愛姫以外に子に恵まれないまま、1586年に死去しました。

三春城

そのため、田村家中は揉め、伊達家と相馬家は、養子を送ろうと画策し、家中も分裂します。
1588年には、相馬派は家中掌握をするため相馬義胤を三春城へ入れようとしますが、伊達派の筆頭・橋本顕徳や田村月斎らが、なんとか撤退させ、そのあと、郡山合戦へと発展しました。





伊達政宗、伊達成実片倉景綱、大内定綱らは、蘆名義広、相馬義胤、石川光昌、佐竹義重に勝利します。
結果的には、相馬派の盟主・田村清顕夫人を船引城へ移し、宮守城から伊達政宗が三春城に入城すると、1ヶ月半程、滞在して、田村月斎・田村梅雪斎と協議するなど田村領の仕置を行い、田村清顕の弟・田村氏顕の子である、田村宗顕(田村孫七郎顕季)を後継と定め、相馬派38名は、陸奥・小野城へと一掃されました。

三春城

一応は、愛姫に子が生まれたら、田村氏の家督を継がせるまでの代役として、田村宗顕が26代当主になった形となっています。(田村仕置)
こうして、田村氏は、再び、伊達氏に従属する形になったと言えます。

三春城

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて、伊達政宗はかろうじて参陣しました。
しかし、田村宗顕(たむら むねあき)は、伊達家に従っていたと自認していたため、参じませんでしたが、それを咎められて、豊臣秀吉の奥州仕置によって、田村家は所領没収となっています。

三春城

ただし、田村領は、伊達政宗に与えられたため、田村宗顕は伊達氏の保護も断り、約40年、流浪しています。
名前も、牛縊定顕と変えて、伊具郡金山村にて隠棲したとも言います。





三春城には、片倉景綱が入ってまもなく、田村郡は蒲生氏郷の領地となったため、田丸具直が三春城主になりました。
しかし、1595年までに、豊臣秀吉の命にて三春城は廃城となり、田丸具直は、陸奥・守山城へ移っています。

三春城

1636年、伊達政宗が亡くなったあと、愛姫の仲介にて、白石城主・片倉重長に仕えています。
その後、愛姫の遺言により、伊達忠宗の3男・宗良が、1652年、江戸幕府の許可も得て岩沼3万石を分知されると、田村宗良と称し、田村家は一関藩として再興されました。

三春城

なお、廃城になっていた、三春城は、1609年までに、陸奥・守山城から蒲生郷成が三春城に移って、改修されたようです。
1628年、二本松城から松下長綱が三春藩3万石になると、本丸下段に3重3階の御三階櫓が築かれるなど、大改修されました。

三春城

1645年、常陸・宍戸城から、秋田俊季が5万5千石にて、三春城に入ると、更に改修も行われた模様で、今の縄張りになり、藩主の居舘などは、三春小学校の場所など、低い場所に移されました。





秋田氏の三春藩校・明徳堂の表門が、三春小学校の校門として移築・現存しています。

三春藩校・明徳堂の表門

日本100名城のスタンプ設置場所は、二の丸(あずまや付近のボックス内)と、三春町歴史民俗資料館の2箇所にあるようです。
ただ、設置場所は、変更になる場合もありますので、事前に最新情報をご確認願います。

三春城

三春城の見学所要時間は、駐車場からで、最低30分~2時間といっところです。

交通アクセス

三春駅から徒歩で行けますが、2.2km、30分ほど歩きます。
そのため、郡山駅から、三春清水行きバスに乗車し、三春の「南町バス停」にて下車した方が、三春城まで歩く距離を、軽減できます。
なお、三春駅のレンタサイクル(貸自転車)を借りる場合には、電動サイクルがお勧めです。





クルマの場合、中腹まで、上がって行け、途中に2箇所ほど、無料の駐車場があります。
二の丸に入る、細い道の先にある駐車場(下記写真)が一番便利なようですが、入口が閉鎖されている場合もあるようです。

三春城の駐車場

今回は、愛姫生誕の地碑がある場所の駐車場を利用しみました。
駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にて、ポイントしております。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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