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相模・平塚城の解説~三浦氏・大森氏の舘跡?

相模・平塚城

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相模・平塚城とは

相模・平塚城(ひらつかじょう)は、神奈川県平塚市中里にある平城(館跡)になります。
平塚城と申しますと、武蔵・平塚城(豊島城)のほうが関東では有名なのですが、こちらは、相模・平塚城です。
平塚でも、相模湾に向かった微高地が、急激に低くなる手前の台地先端に築かれていたようですが、現在、平塚農商高等学校の商業科校舎が立ち並ぶ教育の場となっており、遺構などは無いようです。
解説版などもありません。


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最初の築城としては、鎌倉時代に三浦氏とされますが、三浦三郎為高と言う人物が1220年平塚に館を構えて、平塚為高と称したともあります。
もともとは、大磯などの中村党の土地だったようにも感じますが、平安時代末期に、三浦義継の子・岡崎義実が、中村宗平の娘と結婚して、相模・岡崎城に入っています。
相模川沿いの田村館も、鎌倉時代の三浦氏の舘とされますので、平塚も三浦一族が領していた可能性は充分にあったことでしょう。

その後、平塚城が登場するのは、1440年の結城合戦の際でして、小田原城主・大森氏頼の弟である大森憲頼(大森伊豆守憲頼)と子の大森成頼が、平塚に陣を布いたとあります。
ただし、鎌倉に入っていることがわかる、今川義忠が、平塚に陣を敷いたともあります。
経緯としては、大森憲頼は、小田原を出発して、結城に向かおうとしましたが、鎌倉に進駐していた今川義忠に遮られて、参陣できなかったと言う事になっています。
そのため、順番はわかりませらんが、今川氏に入れ替わるような形で、大森氏が平塚に陣を張ったと考えてよいでしょう。
ただし、陣を張った場所は、住吉要害(山下長者屋敷)ともされます。
          
また、長尾景春の乱で、大森憲頼は、1478年に、相模・平塚城で籠城しております。
そして、太田道灌から攻撃されると、子の大森成頼と、箱根の山中に逃亡し、大森氏は勢力を弱めたとされます。
ただし、実際に、太田道灌が攻めたのは、武蔵・平塚城の可能性があり、史料が混同している節があります。
太田道灌は、自身の功績を記録した「太田道灌状」を記していますが、相模・平塚城は登場しないのです。

この頃、大森憲頼(大森伊豆守憲頼)は、兄・大森氏頼と対立していたと考えられますので、もししかたら、太田道灌側にいた兄・大森氏頼から、攻撃を受けた可能性も考えられます。
その後、大森憲頼(大森伊豆守憲頼)と子の大森成頼は、箱根山中に逃げ込んだとされますが、その後、歴史には登場していません。

ちなみに、1495年頃、伊勢盛時(北条早雲)が、小田原城を奪い、大森藤頼は、親戚の三浦義同相模・岡崎城に逃れ、のち、相模・真田城にて、自刃したともされます。


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その後、平地にある相模・平塚城の重要性は薄れており、北条早雲は、山城の高麗山城や、大庭城を整備したと考えられます。

唯一、遺構のような場所は、南にある、八雲神社の付近でしょうか?
1段、土地が高くなっているのが、わかります。

交通アクセス

相模・平塚城への行き方ですが、JR東海道本線の平塚駅「北口」より、路線バスで、平塚農商高校バス停下車となります。
駐車場は、付近には、見当たりませんでした。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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