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高麗山城の歴史ちょこっと解説~相模湾を望む大磯の山城

高麗山城




高麗山城とは

高麗山城(こまやま-じょう)は、神奈川県中郡大磯町高麗にある山城で、標高166m、比高160mとなります。
別名は、高麗寺山城、住吉古城です。
南は相模湾で北・東は平野部のため、この付近を制するのに、必然的に、城が築かれたと言える地勢です。

高麗山城

江戸時代までは、山麓に、高麗寺(高麗権現)がありました。
現在は、高来神社がありますが、かつては、高麗神社だったそうです。





高麗(こま)と言うのは、その字のとおり、朝鮮半島に由来致します。
日本の平安時代に、高麗(こうらい)と言う国が、朝鮮にありました。
一般的に、今では「こうらい」と呼びますが、昔は、高麗を「こま」と呼んだいた次第です。
その高麗(こうらい)と言う国家が成立するよりも、もっと昔の716年には、埼玉県に「高麗郡」ができて、高麗王・高麗若光(こま の じゃっこう)など、1799人の高麗人が移住しています。
諸説ありますが、朝鮮での権力争いに敗れた朝鮮人の一族が、日本に逃れており、ヤマト政権が手厚く保護していたともされます。
恐らくは、その頃に、神奈川県では、平塚や秦野に高麗人が住んでいましたが、埼玉の高麗郡に、集められたと推測されます。
高麗氏の子孫には高倉氏、吉川氏、井上氏、秩父氏、勝氏などがいます。





そんな昔から、高麗山城を、城として使用していたかは不明ですが、鎌倉時代には、曾我兄弟の仇討ちでも登場する虎御前(虎女)が、高麗山城の麓、高麗寺(高麗権現)にて出家したとも、近くに住んだともされます。

最初の築城は、戦国時代の1510年で、伊勢宗瑞(北条早雲)とされます。
その頃、小田原城から相模国の統一を図っていた北条早雲は、住吉要害を攻略します。
しかし、三浦義同により、住吉要害を奪いかいされたともあり、1510年に、高麗山城を築城して、攻略の拠点にしたと考えられています。

ただし、1438年9月に、関東管領・上杉禅秀の子である上杉持房が、高麗山に陣を構えたとあるため、陣城として使用していた可能性があります。





1560年、上杉謙信が小田原城を包囲する途中、高麗山に本陣を置いたともあります。

江戸時代まで高麗寺があったと前述しましたが、東海道を参勤交代する大名は、高麗寺の前に差し掛かると、駕籠から降りて、歩いて通行するのが、礼儀となっていました。
高麗権現は、江戸幕府から100石の寺領を受けていますので、この付近では、かなり格式があったと考えられます。
例えば相模国一宮の寒川神社も、徳川家康の朱印状は100石です。





今回、あまり時間を使用しての予定外の訪問だったため、登城までは致しませんでした。
なお、ハイキングコースとして整備されていますが、城跡だと知って登る方は、少ないようです。

駐車場は、高来神社の東にある、生涯学習館の駐車場を拝借できると良いかも知れません。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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