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土肥氏館(土肥館・土肥実平館)
築城 : 平安時代末期
城名:土肥館、土肥氏館、土肥実平館
城主:土肥実平、土肥遠平
住所:神奈川県足柄下郡湯河原町土肥(JR湯河原駅前)
遺構:城願寺
土肥館(どい-やかた)は、神奈川県足柄下郡湯河原町土肥にある平安時代末期の館跡で、土肥氏館、土肥実平館とも言います。
下記は、土肥館跡(湯河原駅前のロータリー)にある、土肥実平とその妻の銅像です。
場所は、JR湯河原駅があるところですが、推定地であり、規模なども不明で遺構もありません。
ただ、確かに、南に面した高台の平坦地で、背後は山であり、土肥氏の館址を構えるには最適な場所と言えます。
菩提寺の城願寺辺りまでが敷地だったかも知れません。
明治には土肥村でしたが、大正に入り町制にした際に、湯河原温泉の名前から湯河原町へと変わりました。
なお、背後の山をずっと登って行くと、戦国時代に改修されたと考えられる、相模・土肥城があります。
土肥館の詰城とも考えられますが、鎌倉時代に使用したとは、とても考えられません。
最初に屋敷を構えたとされるのは、土肥実平(土肥實平)です。
相模の小田原付近を本拠にしていた中村氏の一族で、足柄郡土肥郷を与えられました。
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土肥実平と子の土肥遠平(小早川遠平)は、1180年に源頼朝が挙兵した際の有力武将であり、中村党を率いて味方しました。
本家は中村氏ですが、ふるわなかったようで、中村党は、老齢の土肥実平が実質的に率いていたと言う事になります。
工藤茂光、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らと、山木兼隆の山木館襲撃から、参加しています。
石橋山の戦いになる前には、源頼朝らの軍勢は土肥館に2日間逗留して、軍議を重ねたようです。
合戦に敗れると、土肥館に退却し、その後、土肥城の奥にある、ししど窟(ししどの岩屋)へと逃れました。
山中に逃れている間は、土肥実平の妻が、食料を届けるなどの支援を行ったようです。
その後、土肥実平が用意した船で、真鶴から房総へと渡りました。
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このように、鎌倉幕府樹立に大きく貢献した土肥氏ですが、1213年、和田義盛による和田の乱にて、土肥遠平の子や、一族の土屋氏が和田氏に味方します。
そして、討死・処刑されるなどしたため、中村党は大きく所領も減らしましたが、滅亡までは至っていません。
その後、小早川遠平は、残っていた所領の安芸・沼田荘に移って、戦国時代の小早川隆景を輩出することになります。
交通アクセス
JR東海道本線の湯河原駅から降りてすぐで、とても便利です。
駐車場は、湯河原駅前ロータリーの送迎用駐車場が利用できます。
短時間(15分まで)であれば、無料ですので、写真撮影するには充分です。
近くに菩提寺の城願寺がありますので、セットでどうぞ。
・土肥実平をわかりやすく3分で解説~源頼朝に大きく貢献した中村一族の老将
・5分でわかりやすい【源頼朝】の解説「鎌倉幕府・征夷大将軍・鎌倉殿」旧相模川橋脚も (鎌倉殿の13人)
・土肥実平と土肥遠平(小早川遠平)~湯河原・城願寺の土肥一族の墓
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