広島県

三太刀城の考察「沼田荘」土肥遠平(小早川遠平)の館跡か?

三太刀城




三太刀城(みたち-じょう)は、広島県三原市本郷町本郷にある平山城で、標高は35m、比高30mほどになります。
長年、5つ前後の古墳が密集していたと考えられており「三太刀遺跡」とされてきました。
しかし、2005年頃の発掘調査の結果、古代遺構以外に、中世集落跡を囲む板塀跡も、発見されたようで、1250年頃~1400年頃に建物があったと推定されている模様です。
また、領主の館のことを、西日本では「土居」(どい)と呼びますが、関東では「御館」(みたち)と言います。
この「みたち」が地名にもなっていることから、近年、沼田荘に入った、中村党土肥遠平(小早川遠平)が、最初の頃に建てた、屋敷があったのではと推測されるようになりました。

三太刀城

それ以前の沼田ですが、古代には「沼田国造」(ぬたのくにのみやつこ)が支配していました。
沼田国造の子孫は、三原市沼田の沼田神社(旧渟田宮)の神官として続いているようです。
平安時代末期の沼田荘(ぬたのしょう)は、京都・蓮華王院(三十三間堂)の神領でした。
恐らくは、地元の沼田氏(ぬた-し)が、荘園開発を行い、平清盛が蓮華王院を造営した際に、寄進したと推測できます。
その平氏に従っていた沼田五郎は、壇ノ浦の戦いに、連れていかれて、没落しました。
ただし、沼田氏(ぬた-し)の居館は、安芸・高木山城と考えられますので、こことは違うようです。
となると、沼田氏に代わって、沼田荘を得た「土肥遠平」の屋敷であった可能性もある訳です。





土肥遠平(どひ とおひら)は、相模国早川荘の小早川村に小早川館(小田原城)を構えていたため、小早川遠平とも称しています。
平家討伐の功績により、源頼朝から、安芸国沼田荘などの地頭を加増されていました。
しかし、1213年、和田合戦のあと、土肥氏は立場が悪くなり、養子の小早川景平ら一族を引き連れて、安芸国沼田荘に下向し、沼田・小早川氏となりました。
土肥遠平(小早川遠平)は、1237年に沼田庄にて死去し、墓所は米山寺となっています。
その養子である小早川景平は、1244年に死去します。
それより、ずっと前の1206年、安芸国沼田荘は、小早川景平の嫡男・小早川茂平と、次男・小早川季平に分割相続させることを鎌倉幕府が認めていたようです。
このように、三太刀城は鎌倉時代の築城としますと、安芸・高山城は、当初、砦程度の詰の城であったと考えられます。





安芸・三太刀城への交通アクセス・行き方ですが、JR本郷駅から徒歩20分くらいですが、見るべき遺構などはありません。
三太刀城(三太刀遺跡)の山は、現在、削られており、半分以上が新しい墓地になっているようです。
また、丘の周囲は、新興住宅街として整備されています。
しかし、小早川氏だけでなく、毛利家・山名氏・武田家・大友氏・佐伯氏・島津氏など、関東武士の多くは、西国にて勢力を拡大していますが、ほんと、興味深いですね。

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安芸・高木山城(安芸・沼田城)の解説
新高山城の解説【続日本100名城】小早川家の本拠地
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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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