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伊豆・鎌田城の解説【朝倉政元とは】北条家の家臣になった朝倉一族

伊豆・鎌田城




伊豆・鎌田城とは

伊豆・鎌田城(かまだじょう)は、静岡県伊東市鎌田にある標高312mの山城で、比高200mと大変堅固です。

伊豆・鎌田城

奥野ダム側と、八重姫の稚児ヶ淵側から、登山道があり、山頂には龍爪神社と展望台があるようです。
また、土塁や堀切などの遺構も、比較的よく残っているとの事です。
最初の築城としては、鎌田俊長(鎌田新藤次俊長、藤井俊長)が築いたとされます。
鎌田俊長は、源頼朝が伊豆で挙兵した際から従っていた武将で、一説によると、鎌田俊長は鎌田政清の子ともされます。
1160年、平治の乱で敗れた源義朝と家臣の鎌田政清は、尾張に逃れたところで、長田忠致の館で討たれました。
その後、鎌田俊長は、平家の来襲に備える為、伊豆・鎌田城を築いたとされています。(本当だと信じがたいですが・・。)





ただし、平安・鎌倉期に、こんな高いところに、城を築くとは考えにくいです。
伊豆あるあるでして、確かな根拠がなくても、源頼朝に関連付ける、傾向があるように感じます。

ちなみに、源頼朝に仕えた藤井俊長(鎌田俊長)の「俊」の字は、首藤家の宗家筋である山内首藤俊通(山内尼の夫)、山内首藤俊通(山内尼の子)も使っていますので、藤井俊長(鎌田俊長)の出自は、山内・首藤氏の可能性も考えられます。
となると、鎌田氏の本拠は、横浜市の山田城山 (鎌田氏館)になりまして、伊豆の鎌田は、別の領地だったのかも知れません。





明応2年(1493年)、北条早雲堀越御所の茶々丸を急襲した際に、工藤一族の宇佐美定興が討死しています。
そのため、伊東祐遠・伊東祐実あたりが、伊豆・鎌田城を整備したと考えられます。
また、焼土があることから、落城したことがあるとも推測されます。

その後、北条早雲が伊豆を統一すると、家臣・朝倉政元(朝倉右京進政元)が、鎌田城に入ったという説もあります。

朝倉政元とは

朝倉政元(あさくら-まさもと)は戦国時代の武将で、朝倉政景の子として1546年に生まれたとされます。
朝倉彦四郎、朝倉右京進とも書きます。
1573年、織田信長が朝倉氏を滅ぼすと、小田原城北条氏政に仕官したともされます。
小田原衆所領役帳には、馬廻衆として「朝倉右京進廿弐貫文豆州鎌田」とあり、窪分(小田原市板橋)も領地だと記載があります。





興味深いところでは、今川家に仕官した越前・朝倉氏の一族がおります。
7代・朝倉孝景(朝倉敏景)の次男・朝倉秀景(朝倉孫三郎、朝倉三郎左衛門、朝倉宗運)の嫡男・朝倉玄景が伯父・朝倉氏景と仲が悪くなり、駿河・今川氏親を頼ったとあります。
この朝倉玄景(朝倉孫太郎、朝倉右衛門尉、朝倉宗観 )の没年は、1533年12月もしくは、1543年11月に亡くなったとあります。
その朝倉玄景の子が、朝倉政景 (朝倉因幡守)となり、子に嫡男・朝倉政元、朝倉政成 (朝倉新右衛門)、朝倉景吉 (朝倉七左衛門)、朝倉政之 (朝倉五郎右衛門)がおります。
なお、父・朝倉政景の娘(朝倉政元の姉妹)が、北条氏照の重臣・近藤綱秀に嫁いでおり、近藤照秀を産んだとされるほか、同じく、北条氏照の家臣・間宮信繁に嫁いだ娘もいるようです。

他にも北条家に関与している朝倉氏の娘としては、誰が父なのか?、越前・朝倉氏の一族の娘なのか?、定かではありませんが、北条氏綱の3男・北条為昌(玉縄城主)の正室は、朝倉氏の出身の娘ともされます。
また、北条氏政の側近を務めた山角定勝の後室(継室)は、朝倉右京亮某の娘とあります。
<注釈> 某とは、名前がわからない(伝わっていない)との意味。
朝倉政元は「右京進」ですので、山角定勝の継室は、朝倉政元の娘である可能性があります。





また、1515年に生まれた、北条綱成の母は、養勝院殿(ようしょういんでん)ですが、朝倉氏の娘ともあります。
北条綱成の若い頃の動向は不詳ですが、父は今川家臣の福島正成(または伊勢九郎)ともされ、父の死後、小田原に落ち延びて北条氏綱を頼りました。
このように、北条綱成のつてなのか、それ以前から朝倉氏が北条氏を頼っていたのか?、どちらが先かはわかりませんが、いずれにせよ、今川氏の家臣になっていた朝倉氏も、北条氏に仕えるようになり、伊豆衆として伊豆・鎌田城を本拠にしたと考えてよいでしょう。
そもそも、伊勢宗瑞(北条早雲)も、今川家から伊豆にやってきたわけですので、まったく、つてが無いと言う話ではありません。
そして、朝倉政元の「政」は、北条氏政の偏諱と見てとれますので、朝倉政元の代か、その前の朝倉政景の代に、北条家に転じたとも推測できます。

なお、堀秀政の墓がある小田原の海蔵寺に、年代は不詳ですが、8月8日付の朝倉景徳書状写があります。
内容的には、海蔵寺の住僧が永平寺から帰る際に、朝倉義景が、北条氏康と北条氏政の父子への進物を託したと、朝倉景徳の書状にあります。
この朝倉景徳は、詳しいことがわからない武将ですが、北条家にあって、越前・朝倉氏と結び付けていた人物と推測されます。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて、北条氏が滅亡したあと、朝倉政元は、豊臣秀次に仕えています。
しかし、文禄4年(1595年)、秀次事件のあとは浪人しました。





ただし、慶長8年(1603年)、徳川家康に招かれて、徳川頼宣の家臣、ついで徳川頼房の家臣に加わっています。
これらを考慮しますと、朝倉政元は、合戦の経験も豊富な、それなりに有能な武将だったことでしょう。
朝倉政元は、寛永6年(1629年)に死去。享年84。
子孫は旗本500石として続いた模様です。

交通アクセス

伊豆・鎌田城への行き方・交通アクセスですが、クルマの場合、奥野ダムの駐車場を利用できそうです。

伊豆・鎌田城

所要時間ですが、その駐車場から本丸まで40分ほどになります。
伊東駅からバスで訪問する場合には、八代田バス停にて下車して、登城したほうが、近道になると存じます。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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