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修善寺城の解説~関東管領・畠山国清による最後の抵抗

修善寺城

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修善寺城とは

修善寺城(しゅぜんじじょう)は、静岡県伊豆市小立野にある山城で、別名は、立野城、立野要害、城山とも言い、漢字違いの修禅寺城とも書きます。
標高248mの独立峰のような山麓であり、比高は200mと、かなり堅固な守りでして、修善寺に行けば、山城だとわかりやすいです。

修善寺城

以前は、修善寺ロープウェイで山頂まで4分で行けましたが、1977年(昭和52年)に廃止になっているため、現在は、徒歩で約20分の登りです。
なお、立野城として記載致しますと、伊豆・修善寺城のほかに、大和・立野城佐渡・立野城、南紀・立野城もありますので、注意が必要です。

畠山国清

最初の築城としては、康安元年・正平16年(1361年)に、畠山国清が築いたと伝わります。
知勇に優れていた畠山国清(はたけやま-くにきよ)は、足利氏の一族である畠山氏で、足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕に功があり、和泉守護、紀伊守護を務めていました。


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1353年、室町幕府を起こした足利尊氏が、関東地方の統治の鎌倉公方として、次男・足利基氏を送ると、補佐する関東管領に、畠山国清が任じられて、伊豆守護となります。
しかし、室町幕府2代将軍・足利義詮や、鎌倉公方・足利基氏と、対立する構図となります。
足利義詮は弟・足利基氏とともに、若い頃世話になった上杉憲顕を、関東管領に変えています。
こうして、失脚した畠山国清は、弟の畠山義深・畠山義煕と共に、五百騎を引き連れて伊豆に戻ります。
伊豆にて、豪族らの協力も得られず、伊豆・三津城、伊豆・金山城が陥落するなど、窮地に陥った畠山国清は、最後の砦として、1361年9月、修善寺城にて、最後の籠城を行いました。
しかし、3万の大軍に包囲され、兵糧攻めにて、修禅寺城も落ち、麓の修禅寺も焼け、足利基氏に降伏しています。
出家を条件に降伏した畠山国清は、斬首されたとも、流浪して数年後に大和で亡くなったなど、諸説あります。
畠山国清の嫡男・畠山義清は許されたようですが宗家の立場は失っており、河内・畠山家は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれ、能登・七尾城を本拠にする能登・畠山氏へと繋がります。

その後、修善寺城は、使われなかったようですが、明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を滅ぼした際に、残党が修善寺城にて籠城したとあります。
また、戦国時代の1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、織田信雄が修善寺城に入って、韮山城攻めの陣所としています。


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本丸跡は平地で、石塁や井戸跡もあるようですが、ロープウェイーの駅舎もあるなど、改変されてしまっているようです。

交通アクセス

行き方・交通アクセスですが、伊豆箱根鉄道・駿豆線の終点「修善寺駅」から、東海バス・昭和の森行き、持越温泉行き、柿木方面ゆきのバスに乗車して、修善寺東小学校バス停下車。
徒歩約10分ほど登ると、登城口になる城山神社に到着し、そこから約20分の坂道を登って本丸です。
その城山神社に駐車スペースもあるようですが、アクセス道は、農道で、とても狭いようですので、お勧めできないかも知れません。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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