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伊豆・守山城の解説【堀越公方・足利政知の詰城】北条早雲が攻略する

伊豆・守山城

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伊豆・守山城とは

伊豆・守山城(もりやまじょう)は、静岡県伊豆の国市寺家にある山城で標高100m、比高72mです。

伊豆・守山城

かつて北条荘と呼ばれた肥沃な地であり、西に流れる狩野川は天然の水堀で、その北西には、鎌倉幕府の執権家となった北条時政の屋敷跡があります。
そのため、鎌倉時代から、伊豆・守山城を、簡単な詰城として使用していた可能性はありますが、最初の築城としては、1458年頃で足利政知とされます。

足利政知

足利政知(あしかが-まさとも)は、室町幕府6代将軍・足利義教の庶子(4男)で、1435年に生まれました。
母は、幕府奉公衆・斎藤氏の娘・少弁殿(斎藤朝日の妹)になります。


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室町幕府公認の鎌倉公方を命じられて、1458年、関東執事・渋川義鏡や上杉教朝らと関東に向かいました。
しかし、関東は、享徳の乱の戦乱状態で、室町幕府に敵対していた、古河公方足利成氏が抑えており、鎌倉公方にも関わらず、鎌倉に入ることができませんでした。
そのため、伊豆・堀越に逗留することになったため「堀越公方」(ほりごえくぼう)と呼ばれます。

軍事力が弱い足利政知は、駿河守護・今川範忠(いまがわ-のりただ)などの力を借りますが、1471年には、足利成氏の軍勢が堀越御所を襲撃しています。(上杉勢の援軍で撃退)
このように、堀越公方の屋敷があった南側にある、伊豆・守山城を、詰の城として整備したようです。

文明14年(1482年)、室町幕府と足利成氏が和睦すると、足利政知は堀越公方のまま伊豆一国を与えられ、鎌倉入りを果たすことはできませんでした。
1491年、足利政知は病に倒れ、伊豆で病死。享年57。
家督は子の足利茶々丸が継ぎますが、弟・足利潤童子(あしかが じゅんどうじ)との間で内紛となり、興国寺城にいた伊勢宗瑞(北条早雲)が隙を突いて攻撃します。
茶々丸は願成就院で自刃し、堀越公方は約33年で滅亡しました。


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その後、北条早雲は韮山城を伊豆支配の拠点とし、伊豆・守山城は、支城として改修されたと考えられます。
1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、韮山城の戦いとなりますが、このとき、豊臣勢が、守山城を陣城として活用したと推測されます。

伊豆・守山城

伊豆・守山城への登城口は、守山西公園からなど、いくつかありますが、東側の若宮八幡宮境内からも登れます。
片道約10分ですが、大変急な坂道になっているようです。
山頂付近には、3本の堀切が確認できるほか、展望も良い所との事です。

伊豆・守山城

守山八幡宮の本殿は、江戸時代の1632年に、久能城主・榊原照久が造営したものとなります。

交通アクセス

「いずっぱこ」とも呼ばれる伊豆箱根鉄道・駿豆線の韮山駅から、麓の願成就院まで、約1.2km、徒歩16分です。
レンタサイクル(貸自転車)を利用する場合には、伊豆長岡駅のほうが、便利です。
クルマの場合、守山西公園の駐車場利用(北条氏館跡)が便利でしょう。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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