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柏久保城(柏窪城)の解説~北条氏と狩野氏の攻防

柏久保城(柏窪城)

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柏久保城とは

柏久保城 (かしわくぼ-じょう)は、静岡県伊豆市柏久保にある山城で、標高は180m、比高100mほどになります。
別名は、愛宕山城、柏窪城とも言いますが、伊豆の多くの山城の別名でもある城山も使われます。

柏久保城

最初の築城としては、平安時代末期に伊豆・狩野城付近を本拠としていた、狩野氏の租・狩野茂光(工藤茂光)ともされますが、なんとも言えないところです。
この工藤茂光(狩野茂光)は、伊豆の武士を束ねていた頭領であり、源頼朝の挙兵に北条義時らと味方します。
しかし、1180年、石橋山の戦いで、大庭景親伊東祐親らに敗れ、田代信綱の介錯で、自刃しました。


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いずれにせよ、柏久保城は、伊豆・狩野城の支城であり、戦国時代まで伊豆では盟主的な狩野氏が治めていたようです。
その戦国時代に入ったばかりの1493年に、興国寺城から伊豆に進出した北条早雲(伊勢宗瑞)は、伊豆・守山城を攻撃して、堀越公方の足利茶々丸を滅ぼします。
そして、伊豆を統一するべく、伊東佑遠を従属させると、次には伊豆の最大勢力である狩野城主・狩野道一を攻撃開始しました。
出城である柏久保城は、北側の谷から急な斜面を登った北条勢の猛攻によって奪われ、修善寺城に篭もる茶々丸残党に対峙しました。

柏窪城

まお、1497年、狩野氏が盛り返して、柏久保城に攻め寄せています。
しかし、狩野氏の家臣である大見三人衆が、東に5kmの場所、伊豆・大見城から、狩野勢の背後を突いて北条勢が勝利しました。
もちろん、北条早雲が、大見三人衆は佐藤広頼(佐藤藤左衛門広頼)・梅原宣貞(梅原六郎左衛門宣貞)・佐藤七郎左衛門を調略したと言う事になります。
この敗戦により、ついに、伊豆・狩野城も降伏しました。
翌年、1498年8月には、下田の深根城も陥落して、北条氏が伊豆国を統一しています。


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そして、北条氏が本拠とした韮山城の支城として、柏久保城(柏窪城)を、改修したようです。

交通アクセス

交通アクセス・行き方ですが、伊豆箱根鉄道・駿豆線の終点である修善寺駅から登山口まで徒歩10分と近いです。
登城路は、いくつかあるようでして、修善寺体育館に隣接するグランドの横から、一宮神社から、天桂寺からも登れるようです。
修善寺駅から徒歩で登城する場合には、一之宮神社の登山口が便利で、約15分で山頂です。


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中腹にある天桂寺の駐車場を拝借するか、県道沿いにある「JA伊豆の国・農の駅伊豆」の駐車場を利用となるでしょう。
貯水タンクの奥にも駐車スペースがありますが、道が狭いようです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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