目次 Contents
武蔵・松山城とは
武蔵・松山城(まつやま-じょう)は、埼玉県比企郡吉見町にある梯郭式平山城です。
戦国時代、上杉、武田、北条、豊臣となんども攻撃されることになる武蔵・松山城の歴史と共に、城主であった上田朝直もご紹介してみます。
上田朝直(うえだ-ともなお)は上田政広の子として1494年に生まれました。
母は難波田憲重の姉妹です。
スポンサーリンク
まず、この上田氏は、武蔵七党の西党の庶流ですが、嫡流の上田家は、相模の守護代も務めた家柄でした。
なお、宗家の上田政盛は、北条早雲が相模に進出してくると、それまで従っていた扇谷上杉家・上杉朝良を裏切ったため、1510年7月に権現山城を攻撃されて討死したともされ没落しています。
その後、上田政広と難波田城主・難波田憲重の姉妹との間に生まれていた一族の上田朝直(上田能登守朝直)が扇谷上杉家の重臣として頭角を現したようです。
下記は武蔵・松山城の登城口となる岩室観音です。
この門のような岩室観音を抜けると、岩肌を登っていくような感じですが、1月に訪れたところ、足元が「凍結」していて、危なかったです。
トレッキングポールや最低でもスニーカーなど、軽登山の装備があると良いでしょう。
1537年、小田原城主・北条氏綱が河越城を手に入れると、この時、武蔵・松山城も攻撃を受け、当時の城主・難波田憲重と、一緒に守備していた娘婿・太田資正がなんとか撃退しています。
このとき、吉見観音の伽藍がすべて焼失したとあります。
扇谷上杉家・上杉朝定は、居城である河越城を失ったため、以後、武蔵・松山城を本拠として、改修工事を行ったようです。
1546年、北条氏康と戦った河越城の戦いにて、扇谷上杉家・上杉朝定が討死し、山内上杉家の上杉憲政は平井城へ敗走。
この時、上田朝直の叔父・難波田憲重は討死し、太田資正も武蔵・松山城を放棄したため、北条家に手に落ちました。
しかし、1547年9月、北条家の隙をついて太田資正が武蔵・を奪還。
12月に、兄・太田資顕が死去した岩槻城を攻略して太田家の家督を狙った太田資正でしたが、武蔵・松山城の留守を任された(城を譲られたとも)上田朝直が、ここで北条氏康に寝返ります。
スポンサーリンク
この頃、滝山城主・大石定久など、扇谷上杉家の重臣らは、次々に北条家に臣従していますので、上田朝直もその流れに乗り、太田資正も1548年1月に北条家に降伏しています。
ただし、1559年頃には、関東に進出してきた長尾景虎(上杉謙信)に寝返っており、上杉謙信は、武蔵・松山城に太田資正を配置していまする
上杉勢が引き上げると、北条氏康は、何度も岩槻城や武蔵・松山城を攻撃し、1563年には武田信玄の援軍を得た北条勢が、武蔵・松山城を奪いました。
再び、北条家に屈した上田朝直は、秩父のほうに所領を与えられます。
また、上田朝直(上田能登守朝直)の娘が、北条氏繁の次男・北条氏勝の正室となり、北条家により忠誠を誓いました。
そして、1569年、三増峠の戦いにて、武田勢相手に奮戦したことが認められて、武蔵・松山城主に返り咲いています。
こうして、上田家の宗家も継ぐことになり、1573年頃に隠居すると、嫡男・上田長則(うえだ-ながのり)の治世となったようです。
下記のように本丸からは、富士山も望めました。
しかし、1582年10月3日には上田朝直(上田能登守朝直)が死去、また家督を継承していた上田長則も1583年に50歳で没したため、弟の上田憲定(うえだ-のりさだ)が跡を継ぎました。
上田憲定は、城下町の整備や武蔵・松山城の防衛強化を図りましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めとなります。
この時、武蔵・松山城には、城代・山田直安が2300にて守備し、上田憲定は小田原城に詰めました。
武蔵松山城は豊臣勢の北国軍である前田利家・上杉景勝・直江兼続・真田昌幸らに包囲され陥落しています。
徳川家康が江戸城に入ると、武蔵・松山城は松平家広(松平忠吉の子)に10000石で与えられました。
のち、29000石となって「武蔵松山藩」が成立しますが、1601年に松平家広は25歳の若さで死去したため、弟の松平忠頼が引き継いでいます。
松平忠頼は、のち5万石で浜松藩を任されましたので、武蔵・松山城は廃城となり、以後は、川越藩の領地とされました。
武蔵・松山城は、丘城で標高58m、比高は40mです。
堀が結構深くて、反対側にわたるのには、低いところにある土橋に降りたり、登ったりする必要があります。
また、このページの最初に登城口としてご紹介した、岩室観音からの登りも、急なので、前述したとおり、トレッキングポール(ストック)があると良いです。
交通アクセス
国の史跡にもなっている武蔵・松山城への交通アクセス・行き方ですが、クルマの場合、駐車場は、観光名所にもなっている「吉見百穴」の無料駐車場を利用可能です。
駐車場に入るところに岩室観音がありますので、登る場所はわかるでしょう。
トイレはありません。
駐車場の場所ですが、下記の地図ポイント地点が入口となります。
その入口の東側付近に、岩室観音があります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
吉見観音、鎌倉時代にもご興味がある方は、源範頼館も、セットでどうぞ。
・難波田城と難波田憲重とは~難波田氏を継承した難波田憲次も
・関東管領の上杉憲政とは~平井城と平井金山城
・大石定久の生涯とは~扇谷上杉家の宿老も北条家に屈する
・岩槻城主・太田資正と太田氏資と岩槻城訪問記~岩槻城の戦い
・北条氏繁・北条氏舜・北条氏勝とは
・金子十郎家忠館(武蔵・金子氏館)の解説~鎌倉時代に活躍した金子家忠の武勇
・石戸城をわかりやすく2分で解説~埼玉県北本市の荒川に面した要害
・腰越城のちょこっと解説~山田直定(山田伊賀守直定)の居城
・源範頼館・御所陣屋の解説~吉見御所と源範頼(蒲冠者)を検証してみた
・吉見観音への交通アクセス【最寄り駐車場】吉見・安楽寺の歴史
・武蔵・足利基氏館(旧足利基氏館跡)の歴史解説~鎌倉公方・足利基氏とは
・城めぐりにも便利なオリジナル関東地図
この記事へのコメントはありません。