丹後・大島城(おおしま-じょう)は、京都府宮津市大島林にある山城・海城で、標高は131m、比高は130mになります。
伊根湾に突き出た、半島状の山が城跡になっており、地元では「城山」と呼ばれています。
信濃・大島城などもあるため、ここでは、ハッキリと丹後・大島城としてご紹介いたします。
戦国時代、丹後・大島城の城主は、千賀山城守、千賀弥三郎、千賀兵太夫などと伝わるようで、城の別名は千賀城とも言います。
丹後守護・一色義清に従っていました。
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加佐郡にて一色家に従っていた諸将のリストは下記の通りです。
岩瀧城 千賀常陸守
伊根城 千賀山城守、嶋津藤兵衛
嶋津伊織 倉内将監
泊村城 三富豊前守、三富左馬亮
田原城 小出左京進
男山城 高岡出羽守
松尾城 坂野四郎左衛門
瀬屋城 上野甚太夫、前野半助、片岡惣十郎
須津村城 江木七郎、江木豊後守
上山田城 垣見筑前守
四辻亀山城 荻野悪右衛門(荻野景直)、石川悪四郎
伊久地城(四辻城) 赤井五郎(赤井時綱)、赤井平治、石川左衛門、石川文吾、石川五郎左衛門
丹後・石川城 金屋伊豆守
温江城 藤田左衛門、足田孫四郎、新井佐吉郎
金屋城 赤尾彌三左衛門
瀧村城 石川彌左衞門
千賀兵太夫(ちが-ひょうだいふ)は、1578年、細川藤孝・細川忠興・明智光秀による丹後侵攻に対して、宮津城主・小倉播磨守と共に戦ったとあります。
1579年、織田信長は一色氏を滅亡させましたが、各地ではまだ抵抗が続きました。
1582年、一色義俊、一色義清が討死すると、細川藤孝の軍勢が丹後・大島城を攻撃したことから激しい籠城戦になったようです。
このとき、丹後・大島城にて籠城に加わった千賀勢は下記の通りです。
千賀伊賀守、千賀山城守、丹後・田原城の小出左京進、丹後・伊根城の島津藤兵衛、丹後・亀山城の倉内将監、岩ヶ鼻の橋本豊後守らは、みんなで大島城に籠城して戦いましたが、千賀山城守以外は全員討死したとあります。
千賀山城守は、馬で対岸の栗田へ渡って逃れると、浪人したあと、名古屋城の尾張・徳川家に仕えて、御船手の大将になったと伝わります。
丹後・大島城の遺構は、山塊部の南東に位置する東曲輪群と、北西に位置する西曲輪群にと、大きく2つに分かれており、残存状況も良好な城館跡との事です。
千賀氏の菩提寺でもある顕孝寺から登れるようで、隣の白山神社の境内には、丹後・大島城の案内板があるようです。
・加悦城(有吉城・安良山城) 石川直経
・丹後・石川城 石川五右衛門ゆかりの地か?
・今熊野城(丹後・府中城、阿弥陀ヶ峰城、成相寺城)
・丹後・谷垣城 (丹後・木積山城) 藤田氏輝
・建部山城 先祖伝来の地を守り切れなかった一色義道
・弓木城 一色義定や一色義清の最後と鉄砲の名手である稲富祐直
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