並河城(なびか-じょう)は、京都府亀岡市大井町並河にある平城です。
丹波・亀山城からほど近いところにあります。
最初の築城は不明ですが、土豪の並河氏の居城で、戦国時代、並河易家と言う並河城主が現れます。
並河易家(なみかわ-やすいえ)は、並河宗隆(並河因幡守宗隆)の弟で、丹波・守護代である内藤忠行(内藤五郎兵衛忠行)に仕えていたようです。
足利義昭と織田信長が対立した際に、丹波守護代・内藤忠俊(内藤如安)と、宇津城主・宇津頼重は、足利義昭に協力し、槇島城に守備兵を送りました。
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そのため、織田信長は丹波の豪族に対して、丹波・内藤氏に味方するものは滅ぼすと脅迫します。
並河易家は織田勢に従ったようで、明智光秀に協力して、丹波・八上城を兵糧攻めしたとあります。
そして、宇津根(うずね)・並河・大井・土田(つつた)・金岐(かなげ)・太田・勝林嶋の7村の所領安堵を受けたようです。
一族としては、並河金右衛門、並河飛騨守などがいます。
1576年、丹波方面の攻略を任されていた明智光秀は、丹波・黒井城主である赤井直正を攻撃します。
しかし、味方に付いていた波多野秀治が寝返り、明智勢は大敗を喫して、近江・坂本城に戻りましたる
この逃走の際に、丹波の道を案内したのが、並河易家・松田太郎左衛門・開田太郎八・荻野左兵衛・波々伯部五郎三郎らでした。
1577年、丹波・亀山城主の内藤定政(内藤備前守定政)が死去すると、明智光秀と長岡忠興(細川忠興)は、亀山城を3日間攻撃して降伏させ、丹波・内藤家の家臣らは丹波衆として明智光秀に属するようになりました。
下記は並河城の城域と考えられる法然寺です。
1579年、明智光秀が、神尾山城の波多野秀治をおびき出して捕縛しましたが、このとき、並河易家も明智氏に協力した模様です。
織田勢に抵抗を続けて丹後・田辺城の一色義道を、明智光秀と細川藤孝らが攻撃した際には、並河易家も参じています。
また、一色義定が弓木城にて籠城した際にも、並河易家(並河掃部介易家)の名が見受けられます。
このように、明智家に忠義を示していたようで、1582年、本能寺の変となり、山崎の戦いでも先鋒として羽柴秀吉勢に対しました。
並河易家は、明智勢の右翼先陣として子の並河八助と共に出陣し、妻木忠左衛門、波々伯部権頭、酒井孫左衛門、酒井與大夫らと布陣しました。
羽柴勢の堀久太郎(堀秀政)、浅野長政らと激戦となり、敵500余人を討ち取ったとありますが、味方も300余人討死し、明智光秀は勝竜寺城から逃亡。
その後、並河易家は討死にしたともされますが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えたあと、摂津国で病死したともあります。
本能寺の変のあと、豊臣家の茶会に出席した人物として、明智掃部という武将がいますが、並河易家と同一人物だとする説もあるようです。
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並河易家の次男とされる並河宗為(並河志摩守宗為)は、その後、加藤清正に仕えると家老と出世しています。
1611年、熊本城主・加藤清正が死去すると、江戸幕府は、難癖をつけただけでなく、1632年には加藤家を改易(所領没収)とします。
このため、加藤家の家臣になっていた並川宗照も浪人し、のちに土佐藩主・山内忠義に2000石で仕えたようです。
法然寺の境内を含む、東側の台地にある竹藪一帯が並河城の本丸跡になります。
1段高い微高地になっていますが、内部は「ヤブ」で、立ち入ることは困難です。
また、城跡だと示すものは一切ありません。
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丹波・並河城への行き方・交通アクセスですが、JR並河駅から徒歩10分ほどと近いです。
クルマの場合には、法然寺の参拝用駐車場を拝借すると良いでしょう。
駐車場の場所を当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
・斎藤利三~明智光秀の重臣として明智家を支えた勇将
・福知山城のみどころ 塩見頼勝・小野木重勝も
・丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)
・神尾山城(本目城) 柳本賢治の解説も
・内藤如安 ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰
亀岡市により20数年前に発掘調査されています。
本丸跡には井戸が三箇所・湧き水が出る所が一箇所あります。
城域は鍛冶屋川より西・願成寺川より東側・北は大井神社までの地域で
入り組んだ細い道があります。