大溝城(おおみぞ-じょう)は、滋賀県高島市にある平城で、琵琶湖の西岸にある水城としても知られます。
もともとこの辺りは、琵琶湖水軍も活用していた打下城の林員清(はやし-かずきよ)が治めていました。
林員清は浅井長政から、織田信長に従うようになっていましたが、1575年、柴田勝家らと、越前一向一揆を平定に尽力したようです。
しかし、その出陣中において、越前・北庄(福井市)で、林員清は切腹・自害しました。
織田信長は、織田家に従う前に、朝倉氏と浅井氏と共謀していたことを、罪状としたようですので、用済みにした模様です。
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その後、浅井家の家臣で佐和山城主だった磯野員昌が高島を領して打下城に入ったようです。
その磯野員昌が織田信長の勘気に触れて高野山に出奔すると、養子の津田信澄(織田信長の甥)が家督を継いだようです。
そして、水軍の基地も兼ねると言う事で、大溝城を新築し、1578年に完成して本拠としましたので、安土城ができたのと同じころです。(年代など諸説あり)
大溝城の縄張り(設計)は、明智光秀とされており、大溝城本丸の石垣は、沖の島から筏に乗せて運んだと伝わります。
津田信澄は智勇に優れた若い武将であり、織田信長も可愛がったようで、やがて大阪城の守備を任せるなど信頼も寄せています。
そして、正室には明智光秀の4娘を迎えており、1579年に織田昌澄が生まれていました。
ただ、この明智家との縁が災いとなってしまいます。
1582年、本能寺の変の際に、津田信澄は四国攻めの準備で淡路島に渡る直前でしたが中止になり、大坂城に戻っています。
しかし、明智光秀は津田信澄と共謀して謀反を起こしたとのうわさが広がり、織田家の家臣らは疑心暗鬼に囚われました。
そのため、3日後には、織田信孝と丹羽長秀が、大坂城を攻撃しており、大坂城千貫櫓(摂津・野田城とも)にて防戦しています。
丹羽家家臣・上田重安によって津田信澄の首が捕られました。享年は25とも28ともされます。
その後、大溝城は丹羽長秀に与えられ、家臣の植田重安が大溝城主となっています。
1583年からは加藤光泰が入りましたが、1585年に大垣城に移ると、生駒親正が城主になっています。
しかし、1586年に生駒親正は、伊勢・神戸城へ移り、1587年になって京極高次が入りました。
浅井三姉妹の次女「お初」が新婚生活を送った城でもあります。
1590年、京極高次が近江・八幡山城に移ると、織田三四郎が一時城主になっていますが、豊臣秀吉の直轄領になると吉田修理が大溝代官を務めています。
1595年、岩崎掃部佐が大溝城に入ると、江戸時代に入り1603年に大溝城は破却されて、建物の一部は水口岡山城に移築されたようです。
その後、1619年に、伊勢・上野城から分部光信(わけべ-みつのぶ)が2万石で大溝城に入りました。
しかし、城は破却されていたことから、三の丸に大溝陣屋を設けたようです。
現在の高島総合病院の東側に大溝城の本丸跡があり、天守台の見学が可能です。
三の丸は、現在の病院がある場所だとされています。
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本丸跡の脇にある乙女ヶ池は、外堀の一部となります。
乙女ヶ池にも近づけますが、自然の池ですので、落ちないよう、ご注意願います。
大溝城への交通アクセス・行き方ですが、JR湖西線の近江高島駅で下車して徒歩5分となりますので、駅からも近いです。
駐車場ですが、高島総合病院の有料駐車場を利用致しました。
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病院の受付で、駐車料金をお支払いしたいと申し出ましたら、1時間は無料とのことで、そのまま駐車券を出るときに、精算機に差してくださいとの話でして、無料で駐車できてしまいました。
あとで、調べてみましたら、最初の1時間までは無料のようです。
その駐車場(病院敷地内)から、本丸跡に歩いて行けます。
当方のオリジナル地図では、駐車場入口をポイントしておきます。
大溝城に近いほう、奥にある駐車場は職員専用ですので、手前の駐車場のみに止められます。
なお、ご高齢の運転手さんが多いのか?、お世辞にも駐車場が安全とは申せませんでした。
駐車場を歩く際にも、充分に、まわりのクルマにご注意願いたく存じます。
大溝城の見学所要時間は10分~20分といったところです。
・打下城 琵琶湖を望む林員清の本拠地
・大溝城・打下城~城主は津田信澄(織田信澄)京極高次とお初の新婚時代
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