岩手県

陸奥・米内館 米内右近と米内光政も

陸奥・米内館

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陸奥・米内館(よない-だて)は、岩手県盛岡市上米内にある丘城で。標高は220m、比高は20mほどになっています。
最初の築城などは当然不明ではありますが、米内館は、米内氏の本拠であり、奥州・安倍氏の一族と伝わります。
もう少し詳しく記載しますと、安倍貞任の庶流となります。
秋田安東氏の安東盛季の孫が、秋田から一方井城に入りますが、その一方井氏の庶流が米内氏と言う事になります。
ただし、それ以上のことは、よくわかっていません。


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戦国時代には、同族とも言える不来方城主・工藤光家や、一方井城氏に従っていたようです。
南部氏第26代当主になる南部信直は、石川高信の庶長子として一方井城で生まれてもいます。
一方井城主・一方井安正は、南部氏のために、米内右近・栗谷川仁佐衛門らと、南北から日戸・玉山・下田・渋民・乙部・大釜らの諸豪族を攻略しました。
その後、米内右近は、南部信直の命にて、日戸内膳・福士淡路とともに、不来方城(盛岡城)を守備しました。

内城は、畑井野沢に沿って北西に伸びている丘陵の先端にあります。

陸奥・米内館

主郭は東西65m、南北75mの方形で、堀で囲まれているとの事です。
現在、館跡は畑となっており、私有地のようですし、駐車場もないので、勝手に入ることは自粛致しました。

戦国期から江戸時代の米内氏は下記のように繁栄しています。

米内丹後守政成   一方井城主・一方井禅門の弟・米内左近宗政の子で、南部信直に仕えた
米内右近正吉    米内政成の子 400石
米内右近正邦    米内正吉の子で孫二郎 200石
米内孫右衛門政忠  米内正邦の養子 松岡蔵人の4男
米内出雲政連    米内正吉の次男で孫兵衛 100石

米内出雲政弘    米内政連の子・孫八
米内孫左衛門正親  米内政連の次男 77石
米内丹後政恒    米内政成の次男・孫十郎 400石
米内孫七正堅    米内政恒の子であったが所領は没収
米内逸角
米内孫惣光政    米内政連の三男
米内孫四郎政唯   米内政連の四男
米内孫之丞政春   米内政連の五男


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その他、江戸時代には、花巻城下に御鷹師として米内太郎兵衛がいた模様です。

昭和に入って、海軍大将・連合艦隊司令長、内閣総理大臣を務めた米内光政(よない-みつまさ)がいますが、上記の米内氏の名前からも、通字は「政」であることから、盛岡藩士・米内氏が出自です。
米内光政は、どちらかと言うと戦争拡大に反対であったため、日独伊三国同盟にも他藩大志、陸軍と対立したため総理大臣を辞職しました。
終戦の際には難局に尽力し、敗戦処理につくした人物です。

陸奥・米内館への交通アクセスですが、JR山田線の上米内駅から徒歩5分といったところです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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