青森県

唐川城と安東盛季の逃避行~十三湖の展望と源義経伝説も

唐川城

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陸奥・唐川城(からかわじょう)は、十三湖北岸にある福島城の支城で、北へ約3㎞にある標高166mの山に築かれた山城となります。

唐川城の南側は唐川が流れ、北側は険しい山岳になっている天然の要害で、堀と土塁の仕切りあります。
十三湖や日本海を見渡せることから、見張り台の役割もあったようです。


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安藤盛季

安藤盛季(あんどう-もりすえ)は下国安藤太盛季とも書きますが、弟に安東鹿季、子は安東康季と、南部義政の正室になった娘がいます。

安藤氏は十三湊を治めた豪族で、主に蝦夷地と敦賀などとの日本海交易を中心として繁栄していました。
応永2年(1395年)に、弟・西関二郎鹿季を出羽秋田郡へ分家させて、上国家(かみのくに-け)と号したとされており、そのため、十三湊の安藤家は下国家と呼ばれます。

秋田家系図の場合、安藤盛季は応永21年2月2日(1414年2月21日)に没したとされています。
しかし、松前藩史・新羅之記録によると嘉吉3年(1443年)に蝦夷地に渡ったとされており、没年は不詳です。

唐川城

応永30年(1423年)に、将軍・足利義量へ馬、輸入銭、海虎皮、昆布を献上した人物として、安藤陸奥守があますが、この人物は安東盛季とも考えられています。

しかし、三戸南部氏の圧迫を受けたようで、安藤盛季は1440年に娘を南部義政の正室に差し出しています。
それでも、1443年に、聖寿寺館主の南部義政は十三湊を攻撃したようで、1443年に福島城を攻められた安東盛季は、この唐川城に籠りました。
しかし、及ばず、尾崎半島の北側にある柴崎城へ逃亡し、さらには津軽海峡を北へと渡って、安東盛季は蝦夷地に行きました。
※1432年にも一度蝦夷へと逃れて、幕府の仲裁によって和睦となり、一度、十三湊に戻っていたとも考えられます。

唐川城

その後、安藤盛季の没後に下国安藤氏の安藤康季が文安2年(1445年)に津軽へ攻めますが戦陣で病死しています。
また、その子の安藤義季も享徳2年(1453年)に南部氏に敗れて自害して直系は断絶しており、安藤盛季の甥の子・安東政季が下国家を継ぎました。

なお、津軽を手に入れた南部義政は、弟の久慈威信(大浦則信)を種里城へ入れており、のち大浦氏(津軽氏)へと発展していきます。
唐川城跡からの眺望は素晴らしく、眼下には十三湖とその先には日本海や岩木山を望みます。

唐川城からの展望

展望台には数台止められる駐車場があり、舗装路で上がれます。

源義経伝説

唐沢城跡は、古代からあった「高地性集落」の跡だともいわれています。
そして、青森県には、八戸・青森・十三湖・三厩・竜飛へと、源義経が逃れたとされる義経伝説がたくさんあります。

唐川城の源義経伝説

唐川城もそのひとつで、源義経は衣川では死んでおらず、杉目太郎行信が身代わりとなって討死し、十三湊へ逃れてきた源義経は、当時の支配者である藤原秀栄の世話を受けて、やがて、竜飛から北海道(蝦夷地)に渡ったとされています。


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さて、唐川城へのアクセスですが、津軽鉄道の津軽中里駅からバス・小泊線に乗り換えて、相内バス停下車し、徒歩約40分の登り坂となります。
クルマでの行き方ですが、西側からと東側からの2ルートがあります。
ただし、トップ写真にある春日内観音堂(はるひない)がある東から行きましたら、途中から道が怪しくなりまして、急坂のうえ細くてカーブも急だったことか、バックで戻って、西側から登りました。
西側からでしたら、1.5車線といった感じです。

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安東政季までの安東氏盛隆~安藤康季と安藤義季
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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