紀伊・太田城とは
紀伊・太田城(おおた-じょう)は、和歌山県和歌山市太田ある平城です。
最初の築城は、延徳年間(1489年~1492年)で、紀伊国造の64代・紀俊連が築城したともされますが、詳しいことは不明です。
紀伊はその昔から神領であり、紀氏が管理していましたが、その領地はかなり広大だったようです。
やがて雑賀衆など土豪が勢力を強めてきたため、日前神宮・國懸神宮など防御する必要性が出て、周辺に紀伊・太田城や、すぐ東にある紀伊・秋月城、忌部城、熊ケ碕城、弁財天城、冬野城、里江城、三葛城などを築いたようです。
そして、紀氏(き-うじ)の一族や神官などが配置されました。
そのうち、紀伊・太田城の紀氏は、やがて「太田氏」を称するようになったようで、戦国時代の武将として、太田左近がいます。
1576年、太田左近(太田宗正)が紀伊・太田城を改修したとの記録が見受けられます。
1578年には、織田勢の佐久間信盛らが8万にて紀伊・太田城を攻めましたが、守り切っています。
膠着状態となったため、織田家に組していた雑賀孫一(鈴木孫一)の仲介により、停戦が成立しています。
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本能寺の変のあと、天下統一を目指す豊臣秀吉は、1585年に10万とも言う大軍にて紀伊攻めを行います。
このとき、根来衆・雑賀衆・太田党(紀氏)は手を結んで豊臣勢に抵抗しました。
しかし、根来衆・雑賀衆らの千石堀城、積善寺城などは次々に突破され、根来寺も占領されました。
次に豊臣勢は6万とも言う大軍で和歌山になだれ込みますが、堀を深くしていた太田左近(太田宗正)は根来寺の僧兵を味方にして、約4000にて抵抗しました。
堀秀政、長谷川秀一らの攻撃もかわし、籠城したようです。
兵糧攻めでは時間がかかりすぎるとして、豊臣秀吉は「水攻め」を指示しました。
城の周囲には水路を巡らされている環濠集落だったようで、水害には弱いとにらんだようです。
豊臣秀吉による水攻めと言いますと、備中・高松城の水攻めが有名ですが、そちらは1582年ですので、そのあとに水攻めしたのがこの紀伊・太田城、そして1590年に武蔵・忍城と言う事になります。
細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などが築堤の工事を行いました。
堤は総延長6~7キロ程度、高さは3.8m~5.7mほどだったようで、集まった人夫は延べ46万9千人とされます。
その途中、甲賀衆が担当していた堤が崩れると言う不始末があったため、甲賀衆は改易流罪となり、山中重友(山中大和守重友)の所領が没収されています。
重機などない時代に、僅か6日間ほどで完成して、水が注がれました。
その間、紀伊・太田城も土塁を高くしており、城内への浸水は免れていたようですが、3日後に切れて、城内が水浸しになったようです。
しかし、水圧が変化したことで、豊臣勢の堤防も一部が決壊し、宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出ました。
ただちに、豊臣勢は修復し5日間で元に戻しています。
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なお、紀伊・太田城から北方のほうに「出水」と言う地名があります。
その出水に日本三大水攻めとされる紀伊・太田城の水攻めの際の堤防がわずかに残っています。
きのくに信用金庫・出水支店の東側になりますが、堤防が切れて水が漏れ出した場所だったことから、出水と言う地名になったと伝わります。
しかし、約1週間たっても降伏しないため、豊臣勢は小西行長の水軍を進水地区に派遣し船から攻撃を開始し、中川藤兵衛は13隻の安宅船で攻めました。
ところが、紀伊・太田城側は、泳ぎが得意な者を編成して、船底に穴を開けたので、沈没する船が続出したようです。
ただし、この船による攻撃で、城側は大いに戦意を喪失し、蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近・亀井対馬守ら53人の首を差し出して降伏し、約1ヶ月で戦いは終わりました。
紀氏の神領は没収され、53名の首は城内の三箇所に埋められたとされ、そのうちのひとつが「小山塚」という大きな碑(下記写真)が建っている場所となります。
以後、紀伊国は豊臣秀長に与えられて、紀伊湊には吉川平介、日高入山には青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善が置かれています。
また、藤堂高虎が普請奉行となって、新たに和歌山城が新築され、その城代に桑山重晴を収まり、紀伊・太田城は廃城になったようです。
現在、紀伊・太田城跡は、完全に住宅地となっており、遺構の確認はおろか、全体像の把握も困難です。
来迎寺がある場所が紀伊・太田城の本丸であったと考えられています。
その来迎寺には、太田左近の正室とされる砂の墓もあるそうです。
紀伊・太田城への交通アクセスですが、JR西日本「阪和線」の和歌山駅から徒歩約7分ほどになります。
なお、駐車場は無いようで付近の道路は駐車禁止でした。
おまけにレンタカーのナンバーが「北見」(北海道)でしたので、とにかく怪しく見えるため、停車禁止ではないところに30秒だけ停車して撮影するに留めました。
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和歌山駅の西側ある大立寺の山門は、太田城の大門を移築したものと伝わりますが、この付近は交通量も多いところですので、停車も断念しています。
正直、和歌山城が大きすぎて、予想よりも時間を費やしてしまいました。
なお、太田城と言う城跡も日本全国にあります。
佐竹氏の本拠地だった常陸・太田城、下総・太田城、摂津・太田城、肥前・太田城、但馬・太田城とあるため、ここでは、紀伊・太田城と区分して明記させて頂いております。
紀伊・太田城や堤防などが残っている場所は、当方のオリジナル関西地図にてポイントしてあります。
・根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠地
・積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡
・千石堀城 和泉にて対抗した根来衆の砦
・紀伊・泊城(芳養泊城) 湯川氏の最初の本拠地と杉若無心
・紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
・備中・高松城 水攻めの舞台となった備中高松城址
・和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城
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