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三河・重原城とは
石碑の碑文には「長元時代鴫原荘司源貞行ノ邸址ナリ」とあり、長元年間(1028年~1036年)には城館としての体裁が整っていたと思われます。
その後の平安末期には後鳥羽上皇の母である七条院の領地となり、重原氏が荘司として現地を支配していた事は、平治物語に「三河には重原兵衛父子二騎」との記載がある事からも確かだと思われます。
なお、平治物語の重原兵衛父子は石碑に記された源貞行と、その父である源李貞と同一人物と考えられているようです。
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承久3年(1221年)に起きた承久の乱の際に、重原氏は後鳥羽上皇側として参戦しますが、鎌倉軍に敗北を喫して後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となり、重原氏も没落していきます。
その後、二階堂基行(元行)が重原荘守護職として入りますが、3代後胤の二階堂行景は鎌倉後期の弘安8年(1285年)に起きた霜月騒動の際に自害。
その後は北条時房を祖とする北条一門の大仏氏が守護となり重原の地を治め、16世紀末には現在の刈谷市と知多市全域、さらには安城市、豊田市の一部までその勢力は拡大していったとされます。
歴史
戦国時代に入ると、重原の地は緒川・刈谷の水野氏の勢力下に入り、城郭の体裁を整えていきますが、尾張の織田氏、駿河・遠江の今川氏、岡崎の松平氏が争う地となり、織田信秀(おだ-のぶひで)の家臣である荒川新八郎が居城して、松平広忠(まつだいら-ひろただ)と戦った記録が残されています。
天文17年(1548年)に入ると織田氏と今川氏の抗争は激化の一途をたどり、今川義元の配下である太原雪斎(たいげん-せっさい)率いる軍勢が岡崎へ進出し、岡崎の松平勢を先鋒として小豆坂で織田軍と激突を繰り広げており、その戦いの中で松平勢の阿部四郎五郎忠政が重原城の荒川新八郎の兵を多数討ち取ったという記述が家忠日記の中に見受けられます。
その後、松平広忠麾下の野々山政兼(一説には島津政兼とも)と言う人物が重原城主となり、今川義元(いまがわ-よしもと)の命で大高城攻めを敢行しますが、後続の松平軍の行動は鈍く大高城を攻めた野々山政兼の軍勢は敗北を喫し、重原城も織田信秀(おだ-のぶひで)の手に渡ります。
織田信秀は重原城主として山岡河内守伝五郎を入れます。
山岡伝五郎は知立城主で知立神社の神官を兼ねる永見氏の娘を娶るなどして勢力の安定を図りますが、天文18年(1549年)に入ると、今川氏の手によって安翔城は落城し、織田信秀の庶子である織田信広(おだ-のぶひろ)も生け捕りにされるなど、織田と今川の勢力争いは激化の一途をたどりますが、重原城の山岡伝五郎は城を守り通していきます。
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しかし天文21年(1552年)に織田信秀が死去すると、今川軍の攻勢は強まっていき、天文23年(1554年)今川の大軍が重原城を攻撃してきます。
今川軍の総攻撃が始まる数日前、山岡伝五郎は信頼できる家来を呼び「この城はこれ以上は持ちこたえる事ができないが、いつか勢力を盛り返して今川義元を討つための軍資金として、城中の黄金を誰にも判らない場所に埋めておけ」と言う指示を出します。
その家来は数人の手下を連れて城の黄金を城外へと運び出し、誰にも判らないように埋めた後、城内に戻ろうとしましたが、侵攻してきた今川軍に見つかり攻撃を受けます。大半の兵が殺害される中、重傷を負いながらただ一人城内に入った家臣は「朝日の照る、夕日の輝き」と山岡伝五郎に伝えて息絶え、その翌日には重原城も落城したと伝わります。
余談にはなりますが、知立市では2016年に知立埋蔵金プロジェクトを企画し、当時の海岸線を調査して金属探知機を使って埋蔵金を探しましたが、残念ながら発見には至りませんでした。
重原城を確保した今川軍は水野家への攻勢を強めて行きますが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると重原一帯は水野家の支配する地となります。
長い間、刈谷水野氏が支配していた重原の地ですが、江戸末期の寛政4年(1792年)陸奥福島藩の板倉勝長(いたくら-かつなが)が飛び地として重原の地を得て陣屋を築きます。
福島藩は戊辰戦争で奥羽列藩同盟に加わりはしたものの、当初は会津討伐軍を受け入れるなどしており、明治元年(1868年)に政府軍が二本松城の攻撃を行った事を契機に福島城を開城して降伏します。
明治2年、家督を相続した板倉勝達(いたくら-かつさと)は飛び地を整理され重原2万石を得て入国します。
板倉家は城持ち大名だったため、これまでの重原陣屋を廃して、二本木の地に城を築く事にしますが、明治4年の廃藩置県に伴い築城は中止となり、現在は『重原藩壷田山城天守閣予定地跡』の碑が残されているのみとなっています。
交通アクセスと登城
・重原城
知立市上重原町本郷38
名古屋鉄道三河線にある重原駅からすぐにある上重原町公民館一帯が重原城跡と言われています。
公民館の北側を流れる川はかつて堀として使用されていたと思われ、その脇には城址碑と看板、是西福島領と記された碑が残されています。
また、公民館の東側の竹藪内には堀跡も残されていますが、以前行われた発掘調査では幅14mもの広さがあった事が判っています。
〇是西福島領と記された碑
・重原陣屋(浄福寺)
刈谷市重原本町1丁目72
名古屋鉄道三河線重原駅と刈谷総合駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩約15分程度となります。
陣屋跡は浄福寺と言うお寺になっていますが、陣屋門と玄関門、長屋門が移築現存しています。
〇重原陣屋の案内板(浄福寺)
・長屋門(万福寺)
知立市上重原町本郷27
重原城から徒歩わずかで到着します
〇移築された長屋門
・陣屋門(願行寺)
刈谷市半城土町乙本郷81
JR野田新町駅から徒歩約15分
〇願行寺
・玄関門(十応寺)
刈谷市半城土町乙本郷83
願行寺の東隣に位置
〇十応寺
・壷田山城
安城市美園町2丁目4-5
畑の中に碑が立てられています。
※畑は私有地のため、立ち入る際は許可を得てください。
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その他関連施設等
・知立市歴史民俗資料館
知立市南新地2丁目3-3
知立駅南口から徒歩約10分程度にある知立図書館内に併設されており、重原城を発掘調査した際に出土した茶碗や馬の頭蓋骨、堀跡の写真などが展示されています。
(寄稿)だい
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
・刈谷城の解説 織田・今川の間で生き抜いた戦国大名の城
・三河・知立城の解説【どうする家康】徳川家康の次男・結城秀康の生母である於万の方ゆかりの地
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