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三河・日近城とは
日近城(ひぢか-じょう)は文明10年(1478年)作手(つくで)一帯を治めていた奥平貞昌(おくだいら-さだまさ)が西方へ勢力拡大するための足掛かりとして標高270m程の尾根の先端に築いた山城です。
奥平貞昌は嫡子の奥平貞勝(おくだいら-さだかつ)には本拠の作手を継がせ、次男の奥平貞直(おくだいら-さだなお)を西方進出の最前線にあたる日近城に配して日近奥平家を立ち上げさせました。
奥平宗家を率いる奥平貞勝は享禄3年(1530年)松平清康(まつだいら-きよやす)が宇利城攻撃の際に松平氏に従属して攻撃軍に参加しますが、その後の森山崩れにより松平清康が死去し、松平氏が弱体化すると駿河の今川氏に従い作手の地の安定を図ります。
強国に囲まれた中で一定の勢力を保つために奔走する奥平氏ですが、勢力の力関係によって調略の対象になる事も多く、天文6年(1537年)に駿河東部で北条氏と今川氏の間で起こった河東の乱では、今川氏の背後を脅かす目的で北条氏綱が調略をしかけ、その後も奥平氏は織田氏や武田氏、今川氏の標的となっていきます。
三河忩劇
松平氏の弱体化に比例するように、今川氏の三河への影響力は増すばかりとなり、天文16年(1547年)には駿河へ赴く松平竹千代(まつだいら-たけちよ)を織田方へと引き渡した戸田康光(とだ-やすみつ)が今川義元によって滅ぼされ、翌天文17年(1548年)には松平氏の本拠地である岡崎城の攻略を目指して進撃してきた織田軍を、太原雪斎(たいげん-せっさい)率いる今川軍と松平の連合軍(※注1)が小豆坂で迎撃し織田軍を撃破。
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さらには天文18年(1549年)今川軍は安翔城を攻め落として織田信広(おだ-のぶひろ:織田信長(おだ-のぶなが)の庶兄)を人質として、松平竹千代との身柄交換を行い、松平氏は今川氏の保護下に置かれる事となりました。
※注1
小豆坂合戦時には松平本家(岡崎城)は織田氏と手を結んでおり、松平家内部でも今川氏に従う一族と対立し、織田方として戦っていたと言う説もありますが、ここでは松平本家は一貫して今川氏に従属していたとしています。
三河の影響力を確立し始めた今川義元は天文19年(1550年)緒川城(おがわ-じょう)と刈谷城(かりや-じょう)を中心として衣川河口一帯を支配している水野家の圧力を強めながら尾張へと進出を図る今川家に対し、天文21年(1552年)尾張の織田信秀(おだ-のぶひで)が死去。
さらに天文24年(1555年/弘治元年)織田家の行く末に不安を抱えていた鳴海城(なるみ-じょう)の山口教継(やまぐち-のりつぐ)は今川家に調略され、同年3月に松平竹千代は今川義元を烏帽子親として元服し、今川義元からの偏諱を受け松平元康(まつだいら-もとやす)を名乗り、今川一門の関口氏の娘(築山殿)を妻に迎えたため三河一帯は今川氏への帰属が鮮明となります。
順調に進んでいた今川氏の三河支配でしたが、夏頃に足助城(あすけ-じょう)の鱸(鈴木)氏が美濃の遠山氏と結んで反今川の兵を挙げ、西尾城(にしお-じょう)の吉良義吉(きら-よしやす)も反今川に回り、松平氏の一族でも織田方と今川方に分かれて内紛が起こるなど不安定な状況になります。
弘治2年(1556年)奥平家当主である奥平(貞勝)定勝(おくだいら-さだかつ)の嫡男である奥平(貞能)定能(おくだいら-さだよし)が今川氏に忠節を尽くす父に対して反乱を起こします。
この反乱に雨山城(あめやま-じょう)を拠点とする阿知波氏が呼応し、さらには松平家の中でも大給(おぎゅう)松平家、麻生(あそう)松平家らが追随し、戦火は拡大していきます。
奥平定能率いる軍勢は2月に入ると西進し、秦梨城を攻め落として大林に陣を構え、今川氏に従う松平家を中心とした軍勢と対峙して東条松平家の当主である松平忠茂(まつだいら-ただしげ)を討ち取り、近隣の屋敷に宿泊していた松平元康を襲撃するなど一時は戦いを優位に進めますが、次第に劣勢となり日近城まで退却。
その後に起こった雨山城の攻防戦で敗れた奥平定能は捕らえられて高野山に追放され半年に渡って続いた日近城での反乱は終わりを告げ、その後は奥平本家の支配する所となり、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封と共に廃城となります。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
公共交通機関での訪問は難しいため、自家用車での訪問をお勧めします。
国道473号線と県道35号岡崎設楽線が交わる信号のない交差点の東北角にある広祥院(岡崎市桜形町般興11)の脇に日近城跡の看板が立てられており、駐車場確保されています。
登城口は駐車場から直登するルートと、広祥院の墓地から尾根伝いに進むルートがありますが、駐車場からの直登ルート脇にある「おふうの墓」を参拝しましょう。
おふうは、日近奥平2代目である奥平貞友(おくだいら-さだとも)の娘で、人質として武田氏に捕らわれていましたが、奥平貞友が家康側に付いたため、武田方によって鳳来寺で処刑されました。
さらし首となっているのを奥平の家臣がひそかに持ち帰り、この地に葬ったそうです。
また、奥平貞友の五輪塔も登城途中に見ることができます。
登城ルートには看板も立てられており道も整備されていますので、本曲輪を含めた5つの曲輪と堀切や土塁を確認する事ができます。
その他関連施設等
・麻生城
岡崎市桜形町向
県道35号岡崎設楽線脇にある麻生松平家一族の墓所一帯が城跡と言われています。
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・雨山城と雨山合戦の碑
岡崎市雨山町字東アチワ
県道382号線沿いに雨山城の登城口があり、雨山ダム手前には合戦跡の碑、その近隣には雨山合戦で討ち死にした菅沼定村の供養塔などが残されています
(寄稿)だい
・三河・雨山城の解説~織田と今川の境目の城「雨山の戦い」
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
・緒川城(緒川古城・緒川新城)の解説~戦国大名24万石・水野氏の本拠地
・だい先生訪問の三河・尾張など城跡特集
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