千葉県

須賀山城のちょこっと解説~東胤行の下総・東氏本拠地

須賀山城

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須賀山城とは

須賀山城(すがやまじょう)は、千葉県香取郡東庄町笹川にある山城。
予定外の訪問だったため、写真が逆光で申し訳ない。

最初の築城としては、平安時代末期に千葉氏の一族で東氏の初代となった東胤頼(千葉胤頼)となる。
東胤頼(千葉常胤の6男)ははじめ東荘(とうのしょう)33郷の領主となって下総・桜井城(上代前掛城)に入っている。
1185年、父から三崎荘55郷を譲渡されると、1190年、須賀山城を築いて本拠を移すと妙見尊星王を勧請した。
のち、1218年、隣接する下総・森山城に移ったとされる。


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1221年、3代当主・東胤行は下総・森山城から美濃山田庄に移ったため、そのあとは東氏の流れを汲む海上氏(うなかみし)の領地となった。
<注釈> 源頼朝が挙兵した際に海上常晴ら下総平氏は佐竹氏の内通を疑われて、千葉常胤らによって滅ぼされていた。

戦国時代には本佐倉城の千葉昌胤(ちば まさたね)が須賀山城を改修したともある。

一時、常陸・鹿島城鹿島義幹が重臣らに追われて、下総国の千葉氏を頼り須賀山城へ逃れたようだ。

その後、海上氏系の千葉胤富(千葉昌胤の子)が下総・森山城を拡大整備すると、隣接する須賀山城は森山城と一体化され外郭のひとつになったようだ。(破却されたとも)
そして、千葉胤富は千葉介となって千葉氏宗家を継いでいる。

千葉胤富は森山城にいたとき、妻である神島胤重の娘(鹿島幹胤の娘) の菩提を弔う為、芳泰寺を須賀山城下に創建したともある。
鹿島幹胤(みきたね)は、千葉親胤(ちかたね)から命じられて佐倉城を築城したことでも知られる。
千葉胤富は1579年に死去。

1590年(天正18年)、下総・森山城の東直胤は小田原城に籠城し、湯本口にて討死。

交通アクセス

JR成田線・笹川駅より徒歩にて15分ほど。
知的障害者施設・北総育成園の即売所の駐車場が利用できる。
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
道路が狭めの為、お気をつけて訪問して頂きたい。
もちろん、下総・森山城とセットでどうぞ。

下総・森山城(下総・飯田城)の歴史解説~千葉胤富(海上胤富)が大改修した巨大な城跡
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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