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相模・中村舘とは
相模・中村舘(なかむら-やかた)は、神奈川県中郡二宮町川匂にある平城です。
現在、開基不詳の寺院・密厳院 (みつごいん)がある場所が、中村舘跡(相模・中村城跡)とされます。
この二宮の地は、平安時代末期に勢力を張り、源頼朝の鎌倉幕府創設にも尽力した、中村党・中村宗平の支配地(中村郷)でした。
ただ、その鎌倉時代の中村党の本拠地は、この相模・中村舘の付近ではないと考えられ、もっと北の中村宗平の館跡?、もしくは中村荘司御殿があったとされる、五所八幡宮がある中井町付近だったようです。
でも、この二宮の舘も、中村舘と言うため、非常に、ややっこしい状態となっています。
鎌倉時代には、相模・中村氏は衰退し、土肥実平など一族の土肥氏(小早川氏)のほうが勢力が上になりました。
しかし、1213年の和田合戦にて、中村党も没落しましたが、その後は、二宮氏・土屋氏などが、なんとか残ったようです。
そして、この二宮・中村舘があったのは、鎌倉時代よりあとだと考えられているようです。
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なんでも、戦国時代の初期、1494年に、相模・新井城主である三浦時高の養子になっていた三浦義同(みうら-よしあつ)が、謀反を起こして、養父と、養父の実子・三浦高教を討ち取ります。
その相模・三浦氏の三浦時高に仕えていた武将に、中村宗賢(中村民部少輔宗賢)がおり、その中村氏の一族が、この相模・中村舘主であったと考えられているようです。
そのため、相模・中村城と呼んだ方が、まだ、鎌倉時代と区別しやすいのです。
更には、二宮にあることから、二宮城と呼んだ方が、より適切だと思いますが、二宮氏館があるため、一般的には、中村館と呼ばれている次第です。
ちなみに、戦国時代の豊臣秀吉の重臣として活躍する中村一氏は、二宮氏からの系統と考えられています。
まぁ、もっとも、中村氏も三浦氏も、もともとは、平良文からの鎌倉氏とも関連ありますので、同じ一族とも言えます。
なお、平城と記載させて頂いておりますのは、実際の屋敷がこの周辺のどこだったのか?、よくわからないためです。
密厳院がある場所じたいは、小高い丘の中腹とも言えますので、そこを中心とすると、丘城とも言え、すぐ南には、東海道本線の線路が通っています。
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中村民部少輔宗賢は、海沢城?、新井城にて三浦道寸と戦うと、敗れて、伊豆・大賀茂に逃れたとされます。
その後、三浦義同(三浦道寸)は、相模・岡崎城も、領地にしていますので、二宮付近も支配下に収めた可能性があります。
交通アクセス
相模・中村舘への行き方ですが、JR二宮駅・南口から距離1.8km、徒歩25分といったところです。
駐車場は、密厳院の駐車場が、道路の範囲側にありますが、特に遺構などはありません。
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