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愛知県碧南市(へきなん-し)には大浜と言う地区があります。
現在は埋め立ても進み浜らしい面影は少ないですが、戦国時代は名前の通り三河湾に面した遠浅の浜辺で、尾張と三河を隔てる境川と、三河国二宮の知立神社の脇を流れ現在の豊田市中心部あたりまで遡る事ができる猿渡川、二本の川の間を流れる逢妻川が集まる河口一帯は、古来の港として栄えていました。
今回は、この大浜地区の歴史にスポットをあててみたいと思います。
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大浜古城(三河・長田屋敷)
三河・大浜城は、長田氏の城館で長田屋敷とも呼ばれています。
長田氏は知多半島の南部を支配していた豪族で、有名な人物に長田忠致がいます。
平安末期、平清盛との争いに敗れた源義朝(源頼朝・源義経の父)は股肱の臣である鎌田政清の舅にあたる長田忠致を頼り、知多半島の野間まで逃亡してきましたが、忠致は鎌田政清を謀殺し、風呂に入っている義朝も殺害。
首を平家に差し出して恩賞を受け取ります。
その後、頼朝が挙兵すると忠致は義朝殺しを詫びながら頼朝の元へ参陣します。
頼朝は「平家を滅ぼしたら美濃(みの)尾張(おわり)を与える」と言って参陣を許し、弟の範頼と義経の活躍で平家を滅ぼす事に成功しました。
長田忠致が約束の恩賞を受け取ろうとすると「約束通り、みのおわり(身の終わり)を与える」と言って、父義朝の墓から見える松の木に括り付け、忠致父子を処刑し、父の義朝を殺された恨みを晴らしました。
忠致が処刑された後、長田氏は西三河一帯に散らばって移り住む事となり、大浜を支配していた長田氏は忠致の兄である親致の後裔と言われています。
戦国時代に入ると、長田氏は三河の松平氏に従属しながら大浜一帯に勢力を保ちますが、尾張の織田信秀は境川の上流に位置する緒川・刈谷の両城を支配する水野氏を松平氏から寝返らせ、三河・大浜城を次の攻撃目標に定めます。
この時、元服したばかりの織田信長は大浜城攻めで初陣を飾り、各地に放火を行い、無事に那古野城へと帰還したと言われていますが、地元の碧南に伝わる昔話では、信長軍が大惨敗を喫した事になっています。
大浜城は、現在の宝珠寺近辺だったと言われており、境内には永井直勝誕生地の碑が立てられています。
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桶狭間合戦後の大浜城
織田氏と松平氏(今川氏)の狭間にありながら一貫して松平氏に従った長田氏でしたが、桶狭間の戦いを経て織田と徳川(松平)の同盟が成立。
徳川家康は衣浦の水運を統括させるため、長田重元に命じて屋敷程度だった三河・大浜城の北側に羽城を築かせています。
こちらの羽城はその後数奇な運命をたどって幕末まで歴史が続く事になりますが、そのお話は別の機会にさせて頂きます。
交通アクセスと遺構
大浜城
住所:碧南市音羽町1丁目1-48(宝珠寺)
交通:
名鉄碧南駅を出ると左手に銀行があります。銀行の前を通り過ぎた通り(旭通り)を南に向かって左折して真っすぐ進み、音羽町の信号交差点を西に向かって右折。
港橋北の信号交差点の手前に宝珠寺へ入る北向きの路地があります。(駅より徒歩5分)
駐車場:有(宝珠寺の駐車場を利用)
遺構:寺の境内に永井直勝誕生地の碑が立てられています。
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源義朝の墓・はりつけの松
愛知県知多郡美浜町大字野間東畠50
大御堂寺 野間大坊
交通:
名鉄野間駅を出ると駐車場がありますので、駅に沿って左に進むと野間地区の観光案内を兼ねた大型看板が設置されています。
看板の前を通り過ぎて道路を西に向かい、最初の四つ角を左折して真っすぐ進むと、突き当りに野間大坊への案内看板が設置されていますので、看板に従い右手方向に進むと道沿いに「長田屋敷跡」「はりつけの松」の看板を見つける事ができ、その先すぐに野間大坊はあります。(名鉄野間駅から野間大坊まで徒歩15分)
野間大坊には源義朝の墓と並び、豊臣秀吉によって幽閉された後、切腹させられた織田信孝の墓も立てられています。
駐車場:野間大坊の無料駐車場を利用
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なお、織田信孝が切腹した場所は、大坊から徒歩1分の場所にある安養院(美浜町大字野間東畠ケ90-1)というお寺で、現在も多くの参拝者が訪れています。
徒歩で野間駅から回る場合、見学を含め2時間程度を見ておくと良いでしょう。
(寄稿)だい
・織田信長「14歳での初陣」吉良大浜の戦い
・岩津城 ~三河・松平氏飛躍の城~
・三河・羽城(大浜陣屋、三河・長田屋敷)の解説【どうする家康】松平信康が蟄居した「三河・大浜城」池田恒興を討ち取った永井直勝の活躍
・日本全国の城跡オリジナル地図
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